久しぶりに、産経新聞と読売新聞、そして東京新聞の読み比べをしました。
事故後、わたしの新聞離れに、おおいに貢献してくれた産経新聞。
当時は、記事を読むたびに呆れたりムカムカしたりして、いちいちツッコミを入れながら記事を書いたりしていました。
けれどもある日、こんなことで腹を立てるのはエネルギーと時間の無駄だということに気がつき、もう長い間、一切読まないようにしていたのですが、
先日の判決文を読んだ後、ちょっと興味があったので、無駄を承知で調べてみました。
いやあ、相変わらずの阿呆っぷりに、苦笑いの連続です。
樋口裁判長の判決文を、もう30回以上も読んだ後では、そのスカスカっぷりに笑いさえこみ上げてきます。
それにしても、この姑息さ、無知さ、もうひとつの無恥も加えて、いったいどうしたらこういうふうに話を持っていけるのか、ということに唖然としてしまいます。
それに加えて、自民党の重鎮とやらが、
「地裁の裁判官は、思想が偏ったへんちくりんなやつばかりだから……高裁、最高裁に行けばきちんとした判決が出るでしょう」などと言っていたそうで、
もう本当に、こういうのはおしまいにして欲しいと、心の底から願っています。
↓以下、転載はじめ
裁判官が日本を滅ぼす
【産経新聞・産経抄]2014年5月23日
徘徊(はいかい)症状のある91歳の男性が、列車にはねられ死亡した事故で、裁判所は遺族に、鉄道会社への損害賠償の支払いを命じた。
何度かコラムで触れた裁判は、日本の裁判官の「典型的な病理が表れている」そうだ。
▼『裁判官が日本を滅ぼす』との著書もあるノンフィクション作家の門田隆将(りゅうしょう)さんが、ブログでコメントしていた。
事故は、24時間介護している妻がまどろむ間に、男性が家を出て起きた。
裁判官は、そんな事情に踏み込まなかった。
他の裁判でも、時にとんでもない判決が出るのは、やはり「事情」が排除されるからだという。
▼関西電力大飯原発3、4号機の、運転差し止めを命じた福井地裁の判決にも、同じ「病理」が見える。
定期検査のために現在停止中の、原発の再稼働をめぐっては、原子力規制委員会が、「世界一厳しい」といわれる、新たな規制基準に基づいて審査中だった。
▼原発の運転停止がもたらすのは、多額の貿易赤字だけではない。
電気料金の値上がりによって、廃業に追い込まれる中小企業も少なくない。
判決は、そうした「事情」をまったく無視したものだ。
そもそも判決文は、百パーセントの安全がなければ、原発の運転を認めないとしか読めない。
「科学」否定の暴論である。
▼同じ日に横浜地裁が言い渡した、厚木基地を使用する海上自衛隊機の、夜間飛行差し止めの判決も、首をかしげる内容だ。
すでに夜間の飛行を原則自粛している自衛隊に、さらなる足かせをはめれば、救難派遣や不審船の警戒活動に、支障が出るのは目に見えている。
▼それでいて、騒音の大半を引き起こす、米軍機の飛行差し止めは退けたから、周辺住民の騒音被害の軽減にはつながらない。
こんな判決が続けば、本当に日本は滅びてしまう。
大飯再稼働訴訟 不合理な推論が導く否定判決
【読売新聞・社説】2014年05月22日
「ゼロリスク」に囚とらわれた、あまりに不合理な判決である。
定期検査のため停止している、関西電力大飯原子力発電所3、4号機について、福井地裁が、運転再開の差し止めを命じる判決を言い渡した。
原発の周辺住民らの訴えを認めたものだ。
判決は、関電側が主張している大飯原発の安全対策について、
「確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに成り立ち得る脆弱ぜいじゃくなもの」との見方を示し、具体的な危険があると判断した。
「福島第一原発の事故原因が確定できていない」ため、関電は、トラブル時に事態把握や適切な対応策がとれないことは「明らか」とも、一方的に断じた。
昨年7月に施行された、原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい。
判決が、どれほどの規模の地震が起きるかは「仮説」であり、いくら大きな地震を想定しても、それを「超える地震が来ないという確たる根拠はない」と強調した点も、理解しがたい。
非現実的な考え方に基づけば、安全対策も講じようがない。
大飯原発は、福島第一原発事故を受けて、国内の全原発が停止した後、当時の野田首相の政治判断で、2012年7月に再稼働した。
順調に運転し、昨年9月からは定期検査に入っている。
関電は規制委に対し、大飯原発3、4号機が、新規制基準に適合しているかどうかの審査を申請している。
規制委は、敷地内の活断層の存在も否定しており、審査は大詰めに差し掛かっている。
別の住民グループが同様に、再稼働の差し止めを求めた仮処分の即時抗告審では、大阪高裁が9日、申し立てを却下した。
規制委の安全審査が続いていることを考慮し、
「その結論の前に、裁判所が差し止めの必要性を認めるのは相当ではない」という理由からだ。
常識的な判断である。
最高裁は、1992年の、伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、
「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」との見解を示している。
原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった。
各地で起こされた原発関連訴訟の判決には、最高裁の考え方が反映されてきた。
福井地裁判決が、最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである。
関電は控訴する方針だ。
上級審には、合理的な判断を求めたい。
大飯原発・差し止め訴訟 国民の命を守る判決だ
【東京新聞・社説】2014年5月22日
大飯原発の運転再開は認めません。
昨日の福井地裁判決は、言い換えるなら、国民の命を守る判決ということだ。
原発に頼らない国への歩みにしたい。
判決はまず、津波対策に比べて軽視されがちな、地震の揺れの強さに着目し、「想定外」は許されないと言っている。
世界有数の地震国日本では、どんな大地震に大飯原発が襲われるか分からない。
原発を冷やすシステムが、破壊されない保証もない。
一方、想定より弱い地震でも、重大事故は起こり得るものだという。
要するに、「想定外」を恐れている。
◆いくつもの神話の否定
使用済み核燃料に関しても、放射性物質が漏れ出さないように閉じ込めることが可能な保管設備は存在しない、とも考える。
さらに、大飯原発の安全技術と設備は、確たる根拠のない、楽観的な見通しのもとに初めて成り立つ、脆弱(ぜいじゃく)なものだと断じている。
裁判官の前では、関西電力の方に説得力がなかったわけである。
安全神話の完全な否定である。
原発の稼働が発電コストの低減になるという、関電側の主張も退ける。
極めて多数の人々の、生存そのものにかかわる権利と、電気代が高い低いの問題とを並べて論じること自体、許されないと、怒りさえにじませているようだ。
経済神話の否定である。
そして、原発の稼働が、地球温暖化の原因になる温室効果ガスの削減に寄与するという、被告側の主張に対しては、
福島原発事故は、わが国始まって以来の環境汚染、甚だしい筋違いとまで言い切って、環境神話も否定した。
3・11後もまだ残る原発神話を払いのけ、その素顔を国民の前にさらして見せたとすら、言えるだろう。
原発再稼働に走る政府はどう受け止めるのか。
国内の原発訴訟で住民側が勝訴したのは、
高速増殖原型炉もんじゅ(福井県敦賀市)の設置許可を無効とした、2003年の名古屋高裁金沢支部判決と、
北陸電力志賀原発2号機(石川県志賀町)の運転差し止めを命じた、06年の金沢地裁判決だけだった。
福井、岐阜両県と近畿の住民が、同じ3、4号機の差し止めを求めた仮処分裁判の抗告審で、
大阪高裁は今月9日、「現時点では判断できない」と、訴えを退けた。
今回の判決は、福島の事故直後に、当時の近藤駿介・原子力委員長が示した見解を踏まえ、
原発から250キロ圏内の住民は、事故の被害を受ける恐れが強く、差し止めを求める権利があると、かなり広く認めている。
◆国民が普通に思うこと
3・11後、原発の停止や建設中止を求める訴訟が、各地で起こされているが、司法の流れは本当に変わるのか。
関電はきっと控訴するだろう。
差し止めの結論はもちろん、判決内容にも多々不服があるだろう。
国は、これでは日本の経済が成り立たない、というかもしれない。
しかし、よく考えてみてほしい。
今回の地裁の判決理由は、普通の国民が、普通に考えて、思い至ることばかりではないか。
その考えの基底には、あの東日本大震災・大津波で引き起こされた、福島原発の惨状、放射能汚染の怖さ、
また安全神話と今は称される、事故の蓋然(がいぜん)性に固く目を閉ざしていたこと、などへの、痛切な悔悟と反省とがある。
事故のあと、日本の原発行政は、揺れに揺れた。
当時の民主党政権下では、原発ゼロへの計画をいったんは決めながら、自民党への政権交代によって揺り返した。
先月、政府は、原発をできるだけ減らすと言いながら、その実、原発をベースロード電源と位置づけ、事実上、原発頼みへとかじを切り直した。
原発に頼らないという道筋は、立地自治体などには、経済活動の停滞や雇用の不安を生じさせる。
それはもちろん理解せねばならない。
そして、日本全体で考えるべきことだ。
そういった不安を除きつつ、同時に原発政策を見直し、国民の生命・安全を守りぬこうとすることこそが、政治なのではないか。
◆福島の反省に立って
判決は、あらためて、福島の反省に立て、と言っているかのようである。
司法は、行政が行うことについて、もし基本的人権を危うくするようなら、異議を唱えるものだ。
その意味で、今回の判決は、当然というべきであり、画期的などと評されてはならないのだ。
経済性より国民の安全が優先されるというのは、これまで私たちが何度も唱えてきたことであり、未来への願いでもある。
それは、大方の国民の思いと同じはずである。
事故後、わたしの新聞離れに、おおいに貢献してくれた産経新聞。
当時は、記事を読むたびに呆れたりムカムカしたりして、いちいちツッコミを入れながら記事を書いたりしていました。
けれどもある日、こんなことで腹を立てるのはエネルギーと時間の無駄だということに気がつき、もう長い間、一切読まないようにしていたのですが、
先日の判決文を読んだ後、ちょっと興味があったので、無駄を承知で調べてみました。
いやあ、相変わらずの阿呆っぷりに、苦笑いの連続です。
樋口裁判長の判決文を、もう30回以上も読んだ後では、そのスカスカっぷりに笑いさえこみ上げてきます。
それにしても、この姑息さ、無知さ、もうひとつの無恥も加えて、いったいどうしたらこういうふうに話を持っていけるのか、ということに唖然としてしまいます。
それに加えて、自民党の重鎮とやらが、
「地裁の裁判官は、思想が偏ったへんちくりんなやつばかりだから……高裁、最高裁に行けばきちんとした判決が出るでしょう」などと言っていたそうで、
もう本当に、こういうのはおしまいにして欲しいと、心の底から願っています。
↓以下、転載はじめ
裁判官が日本を滅ぼす
【産経新聞・産経抄]2014年5月23日
徘徊(はいかい)症状のある91歳の男性が、列車にはねられ死亡した事故で、裁判所は遺族に、鉄道会社への損害賠償の支払いを命じた。
何度かコラムで触れた裁判は、日本の裁判官の「典型的な病理が表れている」そうだ。
▼『裁判官が日本を滅ぼす』との著書もあるノンフィクション作家の門田隆将(りゅうしょう)さんが、ブログでコメントしていた。
事故は、24時間介護している妻がまどろむ間に、男性が家を出て起きた。
裁判官は、そんな事情に踏み込まなかった。
他の裁判でも、時にとんでもない判決が出るのは、やはり「事情」が排除されるからだという。
▼関西電力大飯原発3、4号機の、運転差し止めを命じた福井地裁の判決にも、同じ「病理」が見える。
定期検査のために現在停止中の、原発の再稼働をめぐっては、原子力規制委員会が、「世界一厳しい」といわれる、新たな規制基準に基づいて審査中だった。
▼原発の運転停止がもたらすのは、多額の貿易赤字だけではない。
電気料金の値上がりによって、廃業に追い込まれる中小企業も少なくない。
判決は、そうした「事情」をまったく無視したものだ。
そもそも判決文は、百パーセントの安全がなければ、原発の運転を認めないとしか読めない。
「科学」否定の暴論である。
▼同じ日に横浜地裁が言い渡した、厚木基地を使用する海上自衛隊機の、夜間飛行差し止めの判決も、首をかしげる内容だ。
すでに夜間の飛行を原則自粛している自衛隊に、さらなる足かせをはめれば、救難派遣や不審船の警戒活動に、支障が出るのは目に見えている。
▼それでいて、騒音の大半を引き起こす、米軍機の飛行差し止めは退けたから、周辺住民の騒音被害の軽減にはつながらない。
こんな判決が続けば、本当に日本は滅びてしまう。
大飯再稼働訴訟 不合理な推論が導く否定判決
【読売新聞・社説】2014年05月22日
「ゼロリスク」に囚とらわれた、あまりに不合理な判決である。
定期検査のため停止している、関西電力大飯原子力発電所3、4号機について、福井地裁が、運転再開の差し止めを命じる判決を言い渡した。
原発の周辺住民らの訴えを認めたものだ。
判決は、関電側が主張している大飯原発の安全対策について、
「確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに成り立ち得る脆弱ぜいじゃくなもの」との見方を示し、具体的な危険があると判断した。
「福島第一原発の事故原因が確定できていない」ため、関電は、トラブル時に事態把握や適切な対応策がとれないことは「明らか」とも、一方的に断じた。
昨年7月に施行された、原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい。
判決が、どれほどの規模の地震が起きるかは「仮説」であり、いくら大きな地震を想定しても、それを「超える地震が来ないという確たる根拠はない」と強調した点も、理解しがたい。
非現実的な考え方に基づけば、安全対策も講じようがない。
大飯原発は、福島第一原発事故を受けて、国内の全原発が停止した後、当時の野田首相の政治判断で、2012年7月に再稼働した。
順調に運転し、昨年9月からは定期検査に入っている。
関電は規制委に対し、大飯原発3、4号機が、新規制基準に適合しているかどうかの審査を申請している。
規制委は、敷地内の活断層の存在も否定しており、審査は大詰めに差し掛かっている。
別の住民グループが同様に、再稼働の差し止めを求めた仮処分の即時抗告審では、大阪高裁が9日、申し立てを却下した。
規制委の安全審査が続いていることを考慮し、
「その結論の前に、裁判所が差し止めの必要性を認めるのは相当ではない」という理由からだ。
常識的な判断である。
最高裁は、1992年の、伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、
「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、行政側の合理的な判断に委ねられている」との見解を示している。
原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった。
各地で起こされた原発関連訴訟の判決には、最高裁の考え方が反映されてきた。
福井地裁判決が、最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである。
関電は控訴する方針だ。
上級審には、合理的な判断を求めたい。
大飯原発・差し止め訴訟 国民の命を守る判決だ
【東京新聞・社説】2014年5月22日
大飯原発の運転再開は認めません。
昨日の福井地裁判決は、言い換えるなら、国民の命を守る判決ということだ。
原発に頼らない国への歩みにしたい。
判決はまず、津波対策に比べて軽視されがちな、地震の揺れの強さに着目し、「想定外」は許されないと言っている。
世界有数の地震国日本では、どんな大地震に大飯原発が襲われるか分からない。
原発を冷やすシステムが、破壊されない保証もない。
一方、想定より弱い地震でも、重大事故は起こり得るものだという。
要するに、「想定外」を恐れている。
◆いくつもの神話の否定
使用済み核燃料に関しても、放射性物質が漏れ出さないように閉じ込めることが可能な保管設備は存在しない、とも考える。
さらに、大飯原発の安全技術と設備は、確たる根拠のない、楽観的な見通しのもとに初めて成り立つ、脆弱(ぜいじゃく)なものだと断じている。
裁判官の前では、関西電力の方に説得力がなかったわけである。
安全神話の完全な否定である。
原発の稼働が発電コストの低減になるという、関電側の主張も退ける。
極めて多数の人々の、生存そのものにかかわる権利と、電気代が高い低いの問題とを並べて論じること自体、許されないと、怒りさえにじませているようだ。
経済神話の否定である。
そして、原発の稼働が、地球温暖化の原因になる温室効果ガスの削減に寄与するという、被告側の主張に対しては、
福島原発事故は、わが国始まって以来の環境汚染、甚だしい筋違いとまで言い切って、環境神話も否定した。
3・11後もまだ残る原発神話を払いのけ、その素顔を国民の前にさらして見せたとすら、言えるだろう。
原発再稼働に走る政府はどう受け止めるのか。
国内の原発訴訟で住民側が勝訴したのは、
高速増殖原型炉もんじゅ(福井県敦賀市)の設置許可を無効とした、2003年の名古屋高裁金沢支部判決と、
北陸電力志賀原発2号機(石川県志賀町)の運転差し止めを命じた、06年の金沢地裁判決だけだった。
福井、岐阜両県と近畿の住民が、同じ3、4号機の差し止めを求めた仮処分裁判の抗告審で、
大阪高裁は今月9日、「現時点では判断できない」と、訴えを退けた。
今回の判決は、福島の事故直後に、当時の近藤駿介・原子力委員長が示した見解を踏まえ、
原発から250キロ圏内の住民は、事故の被害を受ける恐れが強く、差し止めを求める権利があると、かなり広く認めている。
◆国民が普通に思うこと
3・11後、原発の停止や建設中止を求める訴訟が、各地で起こされているが、司法の流れは本当に変わるのか。
関電はきっと控訴するだろう。
差し止めの結論はもちろん、判決内容にも多々不服があるだろう。
国は、これでは日本の経済が成り立たない、というかもしれない。
しかし、よく考えてみてほしい。
今回の地裁の判決理由は、普通の国民が、普通に考えて、思い至ることばかりではないか。
その考えの基底には、あの東日本大震災・大津波で引き起こされた、福島原発の惨状、放射能汚染の怖さ、
また安全神話と今は称される、事故の蓋然(がいぜん)性に固く目を閉ざしていたこと、などへの、痛切な悔悟と反省とがある。
事故のあと、日本の原発行政は、揺れに揺れた。
当時の民主党政権下では、原発ゼロへの計画をいったんは決めながら、自民党への政権交代によって揺り返した。
先月、政府は、原発をできるだけ減らすと言いながら、その実、原発をベースロード電源と位置づけ、事実上、原発頼みへとかじを切り直した。
原発に頼らないという道筋は、立地自治体などには、経済活動の停滞や雇用の不安を生じさせる。
それはもちろん理解せねばならない。
そして、日本全体で考えるべきことだ。
そういった不安を除きつつ、同時に原発政策を見直し、国民の生命・安全を守りぬこうとすることこそが、政治なのではないか。
◆福島の反省に立って
判決は、あらためて、福島の反省に立て、と言っているかのようである。
司法は、行政が行うことについて、もし基本的人権を危うくするようなら、異議を唱えるものだ。
その意味で、今回の判決は、当然というべきであり、画期的などと評されてはならないのだ。
経済性より国民の安全が優先されるというのは、これまで私たちが何度も唱えてきたことであり、未来への願いでもある。
それは、大方の国民の思いと同じはずである。