朝7時の飛行機でバンクーバーまで飛ぶ師匠を、近くの空港まで送り届けてきた。
昨日はアメリカ旅行最後の日。
ずっと買いそびれてきたお土産を買いに、本当は師匠ひとりでマンハッタンに行く予定だったけど、旦那が、「他になにもすることがないから僕も一緒に行こう」と言い出して、ふたりで連れ立って出かけて行った。
まだマーキュリーは空の上から悪さをしそうだけれど、一昨日散々な目に遭った旦那にはもう恐いものなど無いのかもしれない。
わたしは一昨日、師匠からいただいたいろいろな言葉を、頭で理解するだけでなく音楽に生かせるよう、そしてわざわざ合わせに来てくれるA子に気持ちよく歌ってもらえるよう、とにかく練習がしたかったので(というか、カナダから戻ってから全く弾いていなかった遅れを取り戻すためにも)、家に残ってピアノを弾くことにした。
荒れた空から、雨が地面を叩き付けるように降っている。風がゴウゴウと吹いて太い木の幹をしならせる。
すごい湿気だからか、四六時中じっとりと汗をかいている。
集中しにくい。せっかくひとりにしてもらって弾きたいだけ弾けるはずなのに、何度やってもうまくいかなかったり、自分の思っている音が出せない。
でもそれは、このピアノが悪いんじゃない。ピアノのせいじゃない。
お昼ご飯もそこそこに、ちょっとした用事をしに隣町に出ると、どしゃ降りに出くわしてしまった。
家に戻っても車から出るに出られず、運転席に座り、フロントガラスを滝のように流れ落ちる雨水を眺めていた。
早く家の中に入りたい。入って濡れた身体をタオルで拭いて、あそことあそこと、そしてあそこも、もっともっと練習してうまくできるようにしないと。
師匠と旦那はマンハッタンでA子と待ち合わせて、もうすぐここに帰ってくる。
「今日はなにもかもうまくいった!ノープロブレム!」
師匠はお土産の大きな袋を手に、A子はいつものごとく元気はつらつ、旦那も楽しい時間を過ごせたらしく、ご機嫌な様子で戻ってきた。
「さ、やろっか?」
A子との初めての合わせ。
舞台の上で歌う彼女をうっとりと眺めるだけだったわたし。
彼女の伴奏をいつかできたらいいなあ~と憧れたりしたけれど、そんなことは叶わぬ夢だと思っていた。
それが今回、いろんなことが重なって、彼女の歌の伴奏ができることになり、これまでのようにユーチューブやCDを使って聞き比べをしながら練習していたのだが、一昨日のたった一回のレッスンで、自分の演奏がいかに中途半端で、たくさんの技術的なことを見落としていて、それによって無駄で粗野で汚い音が出ていたか、表現がどれほど単調で乱暴だったか、充分過ぎるほどに思い知らされた日の翌日のことだったので、わたしは異常に萎縮してしまった。
A子はもちろん留学という、学ぶことに集中できる立場にあるのだけれど、彼女の音楽に対する情熱、歌への真摯な取り組みを間近に見たり感じたりできるようになって4ヶ月、自分のこの半端な姿勢を、こんなこっちゃいかんなあと反省したり落ち込んだり。
とにかく落ち着けと言い聞かせるのだけれど、ゆらゆらと揺れる心はそれを全く聞かず、腹に重心を置くことがどうしてもできなかった。
だめだめ、そんなバタバタ弾いちゃ。もっと低く重心を下げて。胸元でへらへらやっちゃだめ。上っ面な音しか出てないよ。
ここは言葉の流れや勢いを聞いて。テンポを変えないで。
森の奥深くでいて、ほら、こんなに美しく音が響き渡っていくんだよ。
ここは全然強く弾く必要が無いでしょ?乱暴にガンガン弾かないで。
歌えてない、感じてない、だからピアノの音が機械的にしか聞こえなくてうるさい。
一昨日師匠から言われたことと全く同じことがどんどんA子の声で聞こえてくる。
わかってる。わかってるのにそれができないんだよ。悔しいよ。情けないよ。腹立たしいよ。だって普段そっくりおんなじことを、生徒にえらそうに言ってるんだからわたしは。
「先生、どう思いますか?」とA子。
「昨日彼女に言ったんだけどね」と師匠。
めくらつんぼだった自分が情けなくて情けなくて、激しい感情がドドッと押し寄せてきて、久しぶりに大声上げて泣いてしまいたい気分になった。
ごめんA子。そして師匠。
アメリカでの最後の夜を迎えた師匠によるお点前が始まった。
わたし達に美味しいお抹茶を飲ませてあげようと、師匠は最高級のお抹茶と茶筅、それから『とらや』の羊羹と京菓子持参でやって来てくれた。
うちにはもちろん茶道の道具などひとつも無い。
けれどもそんなことは全然かまわなくて、茶をたてる主人が真心を尽くしてお客様をもてなすことが大事で、その場にいる人が楽しく和やかに会話をしながらお茶をいただくことがいいのだから大丈夫。
お湯は薬缶で沸かし、茶さじは小さなスプーン、茶碗はシリアルボール、お椀を温めるのはサラダ用の大きなガラスのボール……でも師匠は全く平気に、わたし達にお茶の立て方を教えながら動作を進めていく。
「さあどうぞ」
「いただきます」
甘みがあって奥深くて、それでいて喉をさらりと通り過ぎていく、それはそれは美味しいお抹茶だった。
丁度家に帰ってきたTも一緒にいただいた。
羊羹も二人静も、それはそれは美味!心がすうっと落ち着いた。
「まうみ、外に出て空を見上げてみて。めちゃくちゃきれいなお月様だよ。H先生も満月のこと気にしてらしたから教えてあげて」
帰りの電車の乗り換え時に、駅のホームから空を見上げて月を見つけたA子が電話をかけてきてくれた。
きっと彼女はわたしの気分のことを気にしてくれているに違いないと思った。
師匠と外に出て、A子が見たのと同じ月を眺めた。
「まだほんのわずかに満ち足らないけれど、きれいだねえ」
わたし達はそれぞれ、その月を写真に収めた。
満月は24日、Kの誕生日の夜らしい。
ありがとうA子。ありがとう師匠。