中世の瀬戸と並び、施釉陶器の生産地である美濃(東濃)では、桃山時代に入ると、志野、瀬戸黒、
黄瀬戸、織部など優れた茶道具を造りだします。それまで、中国や朝鮮の模倣であった焼き物が
初めて、日本の焼き物として独立します。
1) 美濃窯の歴史。
① 古墳時代以降に須恵器の生産地として栄えた現在の多治見、土岐、瑞浪、笠原、可児などを
含む東濃西部の地域では、平安中期の空白期を経て、平安後期に瀬戸の影響を受け、白瓷
(しらし)の産地として復活します。白瓷(灰釉陶器)窯は12世紀始め頃には250基以上
あったとされています。碗、皿、片口(擂鉢)が主な製品です。
② 鎌倉時代に入ると、常滑と同様に大型の甕や壷が作られる様になります。
これは前回述べた様に中世の農業生産に必要な物で、需要が増していた為です。
焼き物は、信州の伊那谷や木曽谷に通じる東山道や、木曽街道を通じて、東は東北地方、
西は中国地方までの諸国に運ばれます。
③ 12世紀に瀬戸と同様な灰釉や鉄釉を掛けた作品が造り出されています。
古墳時代以降、須恵器生産の中心地である美濃須恵窯(現在の岐阜県各務原市)では、他の
窯場と異なり、白瓷窯に移行せず生産が縮小しますが、一部地域で古瀬戸と同様な、灰釉を
施した四耳壷や水注や、鉄釉を掛けた瀬戸系施釉陶器が焼かれ、瀬戸の影響下にあったとも
思われています。
④ 当時の一般庶民は、農工未分離の状態でしたので、生産する工人は半専業で焼き物を作って
いたと思われます。
2) 桃山陶器の成立。
① 窖窯(あながま)から大窯(おおがま)への変化。
15世紀末~16世紀始め頃、美濃各地の窯は、瀬戸に続き窖窯より大窯に移行します。
この転換は中世の窯業から近世の窯業への転換期になります。
大窯に転じた美濃は、その後瀬戸を大きく引き離し、急速に発展を遂げる事になります。
1974年 岐阜県笠原町妙土(みょうど)窯の発掘により、大窯の構造が知られる様になります。
・ 全長7.8m、焼成室最大幅3.4m、床面傾斜23~26度の半地上窯である事。
出土物は天目茶碗、皿類、甕、瓶類など多岐に渡ります。
瓶類の焼成は、匣鉢詰(さやつめ)によって行われていました。
注: 大窯とは、窖窯が地下式又はトンネル式なのに対し、半地上式の窯で天井が高く、
それに伴い分炎柱の左右に小分炎柱を並べ、更に奥に昇炎壁を設けて、燃焼室の炎が
上へ吹き上がる構造となっています。一般に、窖窯より多くの作品を焼く事が可能です
半地上式にしたのは、窖窯では地中の湿度が高く、温度上昇がし難いのを防ぐ為です。
尚、大窯とは大きい窯の意味では無く、本窯又は元窯という意味と唱える人もいます。
但し、次第に大型化し、一度に数万個の作品を焼く大きな大窯も出現する様になります。
② 大窯址は、現在まで瀬戸窯で約30基余り、美濃窯で約70基余りが確認されています。
最古の大窯は岐阜県多治見市小名田町の窯下(かました)1号窯と言われています。
上記妙土窯と共通点が多く、窖窯と大窯を繫ぐ窯と見なされています。
) 初期の大窯では、仏具類も作られますが、主に碗、皿類などが焼かれています。
菊、かたばみ(草の名前)などの印花文を見込みに捺印した丸皿などが、初期の瀬戸や美濃
で広範囲に作られています。又明(みん)様式の模倣と見られる徳利や天目茶碗も作られ
ます。
) その後、菊皿や鉦鉢(どらばち)などの新しい食器類が出現します。
基本的には、灰釉と鉄釉で施釉されますが、釉の開発が進み桃山陶器に発展して行きます。
3) 古志野に付いて。
以下次回に続きます。
黄瀬戸、織部など優れた茶道具を造りだします。それまで、中国や朝鮮の模倣であった焼き物が
初めて、日本の焼き物として独立します。
1) 美濃窯の歴史。
① 古墳時代以降に須恵器の生産地として栄えた現在の多治見、土岐、瑞浪、笠原、可児などを
含む東濃西部の地域では、平安中期の空白期を経て、平安後期に瀬戸の影響を受け、白瓷
(しらし)の産地として復活します。白瓷(灰釉陶器)窯は12世紀始め頃には250基以上
あったとされています。碗、皿、片口(擂鉢)が主な製品です。
② 鎌倉時代に入ると、常滑と同様に大型の甕や壷が作られる様になります。
これは前回述べた様に中世の農業生産に必要な物で、需要が増していた為です。
焼き物は、信州の伊那谷や木曽谷に通じる東山道や、木曽街道を通じて、東は東北地方、
西は中国地方までの諸国に運ばれます。
③ 12世紀に瀬戸と同様な灰釉や鉄釉を掛けた作品が造り出されています。
古墳時代以降、須恵器生産の中心地である美濃須恵窯(現在の岐阜県各務原市)では、他の
窯場と異なり、白瓷窯に移行せず生産が縮小しますが、一部地域で古瀬戸と同様な、灰釉を
施した四耳壷や水注や、鉄釉を掛けた瀬戸系施釉陶器が焼かれ、瀬戸の影響下にあったとも
思われています。
④ 当時の一般庶民は、農工未分離の状態でしたので、生産する工人は半専業で焼き物を作って
いたと思われます。
2) 桃山陶器の成立。
① 窖窯(あながま)から大窯(おおがま)への変化。
15世紀末~16世紀始め頃、美濃各地の窯は、瀬戸に続き窖窯より大窯に移行します。
この転換は中世の窯業から近世の窯業への転換期になります。
大窯に転じた美濃は、その後瀬戸を大きく引き離し、急速に発展を遂げる事になります。
1974年 岐阜県笠原町妙土(みょうど)窯の発掘により、大窯の構造が知られる様になります。
・ 全長7.8m、焼成室最大幅3.4m、床面傾斜23~26度の半地上窯である事。
出土物は天目茶碗、皿類、甕、瓶類など多岐に渡ります。
瓶類の焼成は、匣鉢詰(さやつめ)によって行われていました。
注: 大窯とは、窖窯が地下式又はトンネル式なのに対し、半地上式の窯で天井が高く、
それに伴い分炎柱の左右に小分炎柱を並べ、更に奥に昇炎壁を設けて、燃焼室の炎が
上へ吹き上がる構造となっています。一般に、窖窯より多くの作品を焼く事が可能です
半地上式にしたのは、窖窯では地中の湿度が高く、温度上昇がし難いのを防ぐ為です。
尚、大窯とは大きい窯の意味では無く、本窯又は元窯という意味と唱える人もいます。
但し、次第に大型化し、一度に数万個の作品を焼く大きな大窯も出現する様になります。
② 大窯址は、現在まで瀬戸窯で約30基余り、美濃窯で約70基余りが確認されています。
最古の大窯は岐阜県多治見市小名田町の窯下(かました)1号窯と言われています。
上記妙土窯と共通点が多く、窖窯と大窯を繫ぐ窯と見なされています。
) 初期の大窯では、仏具類も作られますが、主に碗、皿類などが焼かれています。
菊、かたばみ(草の名前)などの印花文を見込みに捺印した丸皿などが、初期の瀬戸や美濃
で広範囲に作られています。又明(みん)様式の模倣と見られる徳利や天目茶碗も作られ
ます。
) その後、菊皿や鉦鉢(どらばち)などの新しい食器類が出現します。
基本的には、灰釉と鉄釉で施釉されますが、釉の開発が進み桃山陶器に発展して行きます。
3) 古志野に付いて。
以下次回に続きます。