関東では陶器の事を瀬戸物と呼ぶのに対し、西日本では唐津物と呼ばれています。
唐津の焼き物は、東の瀬戸と質量とも対抗する一大産地で、その状態は現在でも続いています。
唐津焼は、佐賀県の唐津市の近傍で焼かれた釉を掛けた(施釉)陶器です。その範囲は唐津市の
南の東松浦郡から、伊万里市、武雄市、有田町、長崎の佐世保市にかけてに広く分布し、その集積地
が唐津であった為、この地方で作られた陶器を唐津焼と呼ぶ様に成ります。
1) 唐津陶器の歴史
唐津の焼き物が何時から始まったかは、諸説あり確定していません。しかし何処で初めて焼か
れたかは、有る程度判明しています。
① 東松浦郡の岸岳周辺の帆柱(ほばしら)、飯洞甕(はんどうがめ)、岸岳皿屋(さらや)
などの古窯が最初に築かれたと思われています。
ここで焼かれた陶器は、藁灰(わらばい)釉や飴(あめ)釉を用いた「斑(まだら)唐津」や
「朝鮮唐津」(別名、叩き唐津)と呼ばれる物で、鉄絵などは描かれていません。
これらの窯で焼成された作品を「岸岳古唐津」と呼びます。又、これらの窯は、一般に唐津焼
きが、いわゆる「焼き物戦争」と呼ばれる文禄、慶長の役(1592~1598年)で渡来した朝鮮
陶工によって起こされた諸窯より、先行していたのは確実の様です。
② 古唐津には、「斑唐津」と、「朝鮮唐津」の二種類があります。
どちらも、器形は壷、碗(茶碗など)、片口、猪口などが主な物です。
) 「斑唐津」とは乳濁した不透明な釉が、一面に掛かった焼き物です。必ずも斑(まだら)
に成っている訳では有りません。
a) 釉の調合は、土灰と長石から基礎釉を作り、藁灰を加え乳濁させた物です。
藁灰には多量の珪酸(けいさん)が含まれ、この珪酸の影響で白色になります。
b) この釉を掛けると、全面が真っ白に成る訳ではなく、細い筋状と成って流れ落ちます。
別名「卯の斑(うのふ)」と呼ばれる釉と同じ様な物です。
c) 素地には砂目を含む、粗目の白土を用い、水挽轆轤(ろくろ)成型されています。
) 「朝鮮唐津」は、上記「斑唐津」とは、素地粘土の違い、成形方法の違いがありますが、
同じ窯で焼かれていました。以下その成形方法を述べます。
a) 土は鉄分の多い、ねっとりとした細土を使います。叩き技法に適した土です。
この土に土灰釉を掛けると、鉄分の影響で赤褐色に焼き上がります。
b) 水挽き轆轤成形ではなく、叩き技法による成形方法です。
c) 轆轤上の亀板に輪積みした粘土を積み上げます。
d) 適度の高さに積み上げたら、内側に丸い当て板をあてがいます。
当て板は、丸太を輪切りにして作ります。
e) 外側より、平らな叩き板で叩いて土を薄く延ばします。
轆轤をゆっくり回転させながら、上下左右を満遍なく叩きます。
f) 叩く事により、上下の土が密着し強度が増します。
同時に、形を整えて行きます。その際、叩き板に格子文や傾斜文などの模様が刻まれて
いると、密着度を増すと同時に、叩き跡が一種の装飾模様になります。
g) 必要な形に成ったら、水挽き轆轤成形で口縁を作り、底回りを削って完成です。
最後に内側に当て板を当てる為に、開いていた口縁は閉じる事になります。
) 岸岳周辺の窯の終焉。
東松浦郡地方を支配していた波多氏一族が1593年に滅亡すると、この地の窯業は衰退して
行きます。当時作られた「斑唐津」も「朝鮮唐津」も、後代の唐津焼の華やかさは無く、
素朴で飾り気の無い、民衆の雑器として使い捨てられる運命にありました。特に叩き唐津と
呼ばれる、「朝鮮唐津」はほとんど伝来する作品は少ないです。
一方、「斑唐津」と呼ばれる器は独特の釉の影響で、茶人に見出され茶碗や水指として
利用されますが、先に述べた様に、雑器と作られた物を見立てて使用した物です。
・ 波多氏の下で働いていた陶工達は、他の地域の諸窯に移動したか、他の場所で窯を築き
技術は途絶える事無く続く事になります。
③ 古窯跡と「斑唐津」と「朝鮮唐津」の作品。
以下次回に続きます。
唐津の焼き物は、東の瀬戸と質量とも対抗する一大産地で、その状態は現在でも続いています。
唐津焼は、佐賀県の唐津市の近傍で焼かれた釉を掛けた(施釉)陶器です。その範囲は唐津市の
南の東松浦郡から、伊万里市、武雄市、有田町、長崎の佐世保市にかけてに広く分布し、その集積地
が唐津であった為、この地方で作られた陶器を唐津焼と呼ぶ様に成ります。
1) 唐津陶器の歴史
唐津の焼き物が何時から始まったかは、諸説あり確定していません。しかし何処で初めて焼か
れたかは、有る程度判明しています。
① 東松浦郡の岸岳周辺の帆柱(ほばしら)、飯洞甕(はんどうがめ)、岸岳皿屋(さらや)
などの古窯が最初に築かれたと思われています。
ここで焼かれた陶器は、藁灰(わらばい)釉や飴(あめ)釉を用いた「斑(まだら)唐津」や
「朝鮮唐津」(別名、叩き唐津)と呼ばれる物で、鉄絵などは描かれていません。
これらの窯で焼成された作品を「岸岳古唐津」と呼びます。又、これらの窯は、一般に唐津焼
きが、いわゆる「焼き物戦争」と呼ばれる文禄、慶長の役(1592~1598年)で渡来した朝鮮
陶工によって起こされた諸窯より、先行していたのは確実の様です。
② 古唐津には、「斑唐津」と、「朝鮮唐津」の二種類があります。
どちらも、器形は壷、碗(茶碗など)、片口、猪口などが主な物です。
) 「斑唐津」とは乳濁した不透明な釉が、一面に掛かった焼き物です。必ずも斑(まだら)
に成っている訳では有りません。
a) 釉の調合は、土灰と長石から基礎釉を作り、藁灰を加え乳濁させた物です。
藁灰には多量の珪酸(けいさん)が含まれ、この珪酸の影響で白色になります。
b) この釉を掛けると、全面が真っ白に成る訳ではなく、細い筋状と成って流れ落ちます。
別名「卯の斑(うのふ)」と呼ばれる釉と同じ様な物です。
c) 素地には砂目を含む、粗目の白土を用い、水挽轆轤(ろくろ)成型されています。
) 「朝鮮唐津」は、上記「斑唐津」とは、素地粘土の違い、成形方法の違いがありますが、
同じ窯で焼かれていました。以下その成形方法を述べます。
a) 土は鉄分の多い、ねっとりとした細土を使います。叩き技法に適した土です。
この土に土灰釉を掛けると、鉄分の影響で赤褐色に焼き上がります。
b) 水挽き轆轤成形ではなく、叩き技法による成形方法です。
c) 轆轤上の亀板に輪積みした粘土を積み上げます。
d) 適度の高さに積み上げたら、内側に丸い当て板をあてがいます。
当て板は、丸太を輪切りにして作ります。
e) 外側より、平らな叩き板で叩いて土を薄く延ばします。
轆轤をゆっくり回転させながら、上下左右を満遍なく叩きます。
f) 叩く事により、上下の土が密着し強度が増します。
同時に、形を整えて行きます。その際、叩き板に格子文や傾斜文などの模様が刻まれて
いると、密着度を増すと同時に、叩き跡が一種の装飾模様になります。
g) 必要な形に成ったら、水挽き轆轤成形で口縁を作り、底回りを削って完成です。
最後に内側に当て板を当てる為に、開いていた口縁は閉じる事になります。
) 岸岳周辺の窯の終焉。
東松浦郡地方を支配していた波多氏一族が1593年に滅亡すると、この地の窯業は衰退して
行きます。当時作られた「斑唐津」も「朝鮮唐津」も、後代の唐津焼の華やかさは無く、
素朴で飾り気の無い、民衆の雑器として使い捨てられる運命にありました。特に叩き唐津と
呼ばれる、「朝鮮唐津」はほとんど伝来する作品は少ないです。
一方、「斑唐津」と呼ばれる器は独特の釉の影響で、茶人に見出され茶碗や水指として
利用されますが、先に述べた様に、雑器と作られた物を見立てて使用した物です。
・ 波多氏の下で働いていた陶工達は、他の地域の諸窯に移動したか、他の場所で窯を築き
技術は途絶える事無く続く事になります。
③ 古窯跡と「斑唐津」と「朝鮮唐津」の作品。
以下次回に続きます。