2) 備前焼と茶陶の関係。
室町中期の茶人村田珠光(じゅこう。1423~1502年))により提唱された「焼締陶を茶陶として
用いる事」は、当時の書院風茶より、草庵茶に変化を与える切っ掛けになります。
その考えは、やがて武野紹鷗(じょうおう。1502~1555年)や千利休、小堀遠州に引き継がれる
事になります。
① 当時、中国の宋や元などから渡来した、青磁や天目などの施釉陶が使われていた、書院風の
「茶の湯」の世界で、焼締陶の持つ質感は「冷え枯れ」と評され、茶の世界に持ち込みます。
但し、焼締陶は備前以外に信楽焼や伊賀焼にもあり、茶道具として用いられています。
② 村田珠光の時代には、水指、建水、花生などが使用され、焼締の茶碗が使われる様になるのは
武野紹鷗以降になります。珠光達が取り上げたのは、必ずしも茶道具として作られた物では
なく、種壷、小甕、徳利の類です。
紹鷗愛用と伝えられている備前水指 銘青海(室町時代、大窯以前、徳川美術館蔵)は、明ら
かに水指として作られた物です。備前焼が茶会に使われた事を記載したのは、「天王寺屋
会記」(1549年)に「水こぼし ヒセン物」とあります。「ヒセン物」が備前焼を指して
います。 備前水指 青海:高さ 18.2cm、口径 18.2cm、底径 14.0cm
③ やがて茶器用に作られた、多くの種類の備前焼の器が使われる様になります。
当時の茶会記録によると、茶入、茶碗、香合、蓋置、徳利なども使われています。
茶陶として最初に焼かれたのは、1557年銘のある備前焼筒花生のころと思われています。
④ 豊臣秀吉は備前好みで有名です。京都北野の大茶会(1594年)では、天下の名器と共に
備前焼の花生や面桶(めんつう)が飾られた事が記録に残っています。
注: 面桶とは紹鴎、利休の好みで作られた曲物形をした建水の事です。
当時の備前焼の茶陶の価値は、現在の我々の想像出来ない程の高価な物でした。
3) 桃山様式による備前焼。
桃山時代は古備前の黄金期とも言われています。当時の優れた茶人の影響を受け、茶の湯に
欠かせない焼き物になります。
① 熱心な京都の茶人さえ、伊部を訪れ茶陶の指導を行ったり、型紙を送り自分好みの茶陶を
注文する人も現れます。この中から名物として世に出た物もあります。
利休の弟子の山上宋二は「茶器名物集」に天下の名物を記録しています。
② 伊部手の登場。桃山時代に初期伊部手の備前焼が登場してきます。
) 伊部手とは、作品の表面に肌理の細かい土を塗り、肌に光沢を与えて桃山好みの備前焼
に仕上げる方法です。作品は肉薄の物が多い様です。
) 室町末期より、器の内側に塗り、水漏れ防止を目的に使われていました。
土を塗ることで、黒っぽい光沢のある肌になります。特に後に細工物(さいくもの)と
呼ばれる、手作りの獅子、布袋(ほてい)などの置物や香炉等に塗り、匣鉢(さや)に
納めて焼くと、銅製品の様になりますので、盛んに行われています。
但し、茶陶に使用すると、時代を反映した綺麗な作品に成りますが、備前らしさが無く
雅味が無くなると言う人もいます。
) この土は、伊部の近くの長船(おさふね)、畠花(はたけだ)で取れる鉄分の多い
目の細かい土で、更に水簸(すいひ)し水に解いて塗り、乾燥焼成すると鉄分と長石が
熱反応し釉化が起こり、光沢が出ると言われています。
尚、この土は、備前長船の刀鍛冶が刀に「におい」を付ける為に使用するものです。
以下次回に続きます。
室町中期の茶人村田珠光(じゅこう。1423~1502年))により提唱された「焼締陶を茶陶として
用いる事」は、当時の書院風茶より、草庵茶に変化を与える切っ掛けになります。
その考えは、やがて武野紹鷗(じょうおう。1502~1555年)や千利休、小堀遠州に引き継がれる
事になります。
① 当時、中国の宋や元などから渡来した、青磁や天目などの施釉陶が使われていた、書院風の
「茶の湯」の世界で、焼締陶の持つ質感は「冷え枯れ」と評され、茶の世界に持ち込みます。
但し、焼締陶は備前以外に信楽焼や伊賀焼にもあり、茶道具として用いられています。
② 村田珠光の時代には、水指、建水、花生などが使用され、焼締の茶碗が使われる様になるのは
武野紹鷗以降になります。珠光達が取り上げたのは、必ずしも茶道具として作られた物では
なく、種壷、小甕、徳利の類です。
紹鷗愛用と伝えられている備前水指 銘青海(室町時代、大窯以前、徳川美術館蔵)は、明ら
かに水指として作られた物です。備前焼が茶会に使われた事を記載したのは、「天王寺屋
会記」(1549年)に「水こぼし ヒセン物」とあります。「ヒセン物」が備前焼を指して
います。 備前水指 青海:高さ 18.2cm、口径 18.2cm、底径 14.0cm
③ やがて茶器用に作られた、多くの種類の備前焼の器が使われる様になります。
当時の茶会記録によると、茶入、茶碗、香合、蓋置、徳利なども使われています。
茶陶として最初に焼かれたのは、1557年銘のある備前焼筒花生のころと思われています。
④ 豊臣秀吉は備前好みで有名です。京都北野の大茶会(1594年)では、天下の名器と共に
備前焼の花生や面桶(めんつう)が飾られた事が記録に残っています。
注: 面桶とは紹鴎、利休の好みで作られた曲物形をした建水の事です。
当時の備前焼の茶陶の価値は、現在の我々の想像出来ない程の高価な物でした。
3) 桃山様式による備前焼。
桃山時代は古備前の黄金期とも言われています。当時の優れた茶人の影響を受け、茶の湯に
欠かせない焼き物になります。
① 熱心な京都の茶人さえ、伊部を訪れ茶陶の指導を行ったり、型紙を送り自分好みの茶陶を
注文する人も現れます。この中から名物として世に出た物もあります。
利休の弟子の山上宋二は「茶器名物集」に天下の名物を記録しています。
② 伊部手の登場。桃山時代に初期伊部手の備前焼が登場してきます。
) 伊部手とは、作品の表面に肌理の細かい土を塗り、肌に光沢を与えて桃山好みの備前焼
に仕上げる方法です。作品は肉薄の物が多い様です。
) 室町末期より、器の内側に塗り、水漏れ防止を目的に使われていました。
土を塗ることで、黒っぽい光沢のある肌になります。特に後に細工物(さいくもの)と
呼ばれる、手作りの獅子、布袋(ほてい)などの置物や香炉等に塗り、匣鉢(さや)に
納めて焼くと、銅製品の様になりますので、盛んに行われています。
但し、茶陶に使用すると、時代を反映した綺麗な作品に成りますが、備前らしさが無く
雅味が無くなると言う人もいます。
) この土は、伊部の近くの長船(おさふね)、畠花(はたけだ)で取れる鉄分の多い
目の細かい土で、更に水簸(すいひ)し水に解いて塗り、乾燥焼成すると鉄分と長石が
熱反応し釉化が起こり、光沢が出ると言われています。
尚、この土は、備前長船の刀鍛冶が刀に「におい」を付ける為に使用するものです。
以下次回に続きます。