わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

焼き物の着物(色彩)54 古備前 1

2014-04-12 20:48:05 | 陶磁器と色彩
備前焼は現在でも大変人気があり、全国に知られた焼き物です。

伊部(いんべ)焼とも呼ばれ、岡山県備前市伊部が故郷(ふるさと)で一千年の歴史を有する窯業の

中心地として栄えます。伊部は旧山陽道沿(現、国道二号線)の小さな町ですが、交通の便が良く

焼き物は陸路、海路、河川を通じて全国に運ばれていました。

1) 備前焼の特徴

 ① 須恵器(すえき)の系統を引く無釉の焼締陶器です。

  a) 3世紀の頃、朝鮮より須恵器の技法が伝わります。それ以前の土師器(朱色の素焼の軟陶)

   と異なり、硬く焼き締まり水を通さない丈夫ば焼き物です。須恵器はたちまち全国の窯場に

   伝わり各地で作られる様になります。備前の須恵器は他の窯場と異なり、色彩が明るく白に

   近い灰色が特徴です。最盛期は6世紀前半との事です。

  b) これらの焼き物は奈良~平安時代に掛け、主に朝廷用に作られ貢物や貴族、神社仏閣、

   荘園などへ販売されていました。

   平安末期になると、武士階級の台頭と伴に、朝廷の権力が弱くなり、又、荘園貴族の収入が

   減り需要が減退します。又、朝廷への貢物も無くなり、付近の民衆の生活用品を多く

   焼く様になります。

  c) 工人達の移動。朝廷への貢物を焼く工人達の特権も失われていきます。

   (一定の焼き物を朝廷に納めると、80日間の労働が免除されたそうです。)

   同時期、国府が岡山から邑久(おく)郡福岡に移り、国道も伊部を通る様になります。

   須恵器作りの工人は、伊部の西北の熊山方面に移動し、窯を築きます。

   ここには、焼き物に適した土や、燃料になる赤松が豊富に存在していました。

   作品は、発掘調査でも、大瓶(おおがめ)、壷、擂鉢(すりばち)の三点のみが確認できます

   ・ 備前の大瓶は水瓶、酒瓶、藍瓶(染色用)として使用されていました。二石(こく)

     入り、三石入りの物が多く、容積が表示されるのは室町時代以降になります。

   ・ 壷の肩には耳は無く、直線文の櫛目文様があります。

  d) 土は粘着力の少ない山土を使い、制作方法は、胴を2~3段に継ぎ合わせていますので、

    紐作りによる轆轤挽きと思われています。口は太い玉縁で、肩一面に暗緑色の胡麻が掛

    かった物や、玉だれの様に筋となって流れ落ちている物が多いです。

  e) 還元焼成から酸化焼成へ。

   鎌倉時代になると、須恵器は原則還元焼成で行いますが、次第に明るい赤褐色の肌が好まれる

   様にまります。その為にも窯を急勾配にし燃焼力を強くして、酸化炎を作り出す必要があり

   ました。備前焼では早くから半地上式の鉄砲窯が使われています。

   注: 鉄砲窯とは、山の傾斜地に長い溝を掘り、左右両側から土を盛り上げ、天井を作り、

    内部に支柱を設けた半地上式の窯で、側面に差木孔(薪を投入する穴)が並んでいます。

    この窯は窖窯(あながま)より湿度が少なく、燃料の節約にも成りました。

    尚、山頂に築かれた窯の方が、山腹の窯より時代が古いと言われています。

 ② 室町時代の備前焼。

  ) 室町初期~中期(南北朝)の時代。

   熊山の頂や山腹に窯を築いた工人達は、生活の便利差を求め、次第に山里に下りてきます。

   最初に発見された窯址が、備前市浦伊部の釜屋敷です。ここは伊部の片上湾の近辺です。

   又、伊部の南方の西大平山や、東大平山の谷合の下山山麓に散在しています。これを山麓窯と

   いいます。

  ) 戦国時代。戦乱が相次ぎ生活も不安定になるに従い、全体に粗雑な作品が多くなりますが

    らっきょ徳利や油壷など新しい形の製品も登場します。

    注目すべき事は、足利八代将軍義正(銀閣寺を建立)の頃、奈良称名寺の村田珠光が当時

    流行していた、書院茶に対し「侘び、寂び」を尊ぶ草庵茶を提唱し、共鳴者が増加して行き

    ます。
 
以下次回に続きます。
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