2) 渡来人による焼き物。
豊臣秀吉による朝鮮出兵は、彼の病死によって撤退されますが、多くの朝鮮の陶工達が各地の
西国大名達によって拉致され、我が国に渡来する事になります。
彼ら朝鮮の陶工達や彼らの指導によって、唐津焼のみならず、後日取り上げる、萩、上野
(あがの)、高取、薩摩など多くの西国大名の元で、新たな窯が築かれ新しい陶磁器の産地に
発展して行きます。この事は我が国の陶芸界に一大変革をもたらしました。
その背景にあるのは、各藩の台所事情で、藩の財政を豊かにする為に、新たな産業を起こし、
現金収入を増やしたい思惑がありました。
① 唐津焼は、朝鮮から渡来した陶工達により、従来の岸岳系の陶工と伴に、肥前一帯に多くの
窯を開く事に成ります。
特に現在の松浦町周辺で約30箇所の松浦系の窯跡があります。同様に武雄町の周辺にも
約25~30箇所の窯跡(武雄系)が見つかっています。その他、平戸系で約20数箇所など
総数で100箇所近い窯跡が見つかっています。
(但し、同時に100箇所ではなく、時代に幅があります。)
) 一元的でない唐津焼。これが唐津焼の魅力になっています。
出身も異なる陶工達が広い場所に多くの窯を築いた為、色々な種類の唐津焼きが生まれます
a) 窯を築く土地により、粘土の種類が異なるのは当然です。
白い土、赤土、赤黒土、肌理の細かい土、粗い土、粘り気のある土、砂混じりの土など
多彩です。当然、その土に適した作り方や作品ができます。
b) 釉にも多様性があります。白い釉(白濁釉)でも窯により、微妙に差があります。
透明に近い釉、半濁釉、白濁釉、青味を含む釉などがありますが、同じ釉であっても素地の
違いで発色は異なります。
c) 絵柄や絵の描き方なども千差万別です。朝鮮系の絵柄や我が国特有の絵柄などが描かれて
います。
) 但し、当然の事ながら、当時でもある程度の共通事項も存在します。
a) 新興の窯では、渡来人の影響が大きく、李朝中期の南朝鮮系の焼き物が強く影響した
作品が作られています。それはこだわりの無い、素朴で明るい焼き物と成っている事です。
b) 三島又は三島風の技法も朝鮮からもたらせれた物です。
その他、粉引唐津、刷毛目唐津、絵唐津、黒唐津、二彩唐津、備前唐津、瀬戸唐津など
多様な加飾の技法が出現する事に成ります。これらに付いては後日お話します。
3) 彫(ほり)唐津に付いて。
成形後、素地がまだ生乾きの状態で、竹ベラや櫛などで幾何学的で単純な紋様を彫り、長石釉を
掛けて志野風に焼いた物を彫唐津と言います。
① 岸岳古窯の一つの飯洞甕下窯から、彫唐津の茶碗の破片が発見されます。この茶碗が焼か
れたのは、1592~11593年と見られています。その背景には、文禄、慶長の役の司令部である肥前
名護屋城に、古田織部(1544~1615年)が滞陣し、近隣の岸窯に意匠を指示させて作らせた
と言う事も考えられます。
② 胴の外側全周に、大きな☓形の深い彫文様が連続して彫られ、長石釉が掛けられているのが
特徴です。又、彫込み部分に鉄絵(鉄釉)を施した彫絵唐津があります。
・ 彫唐津茶碗 銘玄界: 桃山時代(16世紀末) 飯洞甕 京都民芸館蔵。
高さ 10.1cm、 口径 12.9~14.2cm、 高台径 7.4cm
口縁は不規則な七角形で、二重高台です。胴に大きなX印の陰刻があります。
・ 彫絵唐津茶碗: 16世紀末 飯洞甕下窯、上窯より同一陶片が出土しています。
高さ 9.8cm、 口径 13.0~14.0cm、 高台径 7.9cm
胴部に箆(へら)でX印の陰刻があり、長石釉を掛けた後、陰刻の上に黒釉を掛けてあり
ます。焼成温度が低い為、長石釉が十分熔けず、高台脇の梅花皮(カイラギ)が景色と
成っています。
轆轤造りで、素地は砂気のある白土です。半筒形で口縁部を五箇所指の腹で凹ませて
あります。
4) 奥高麗(こうらい)に付いて。
以下次回に続きます。
豊臣秀吉による朝鮮出兵は、彼の病死によって撤退されますが、多くの朝鮮の陶工達が各地の
西国大名達によって拉致され、我が国に渡来する事になります。
彼ら朝鮮の陶工達や彼らの指導によって、唐津焼のみならず、後日取り上げる、萩、上野
(あがの)、高取、薩摩など多くの西国大名の元で、新たな窯が築かれ新しい陶磁器の産地に
発展して行きます。この事は我が国の陶芸界に一大変革をもたらしました。
その背景にあるのは、各藩の台所事情で、藩の財政を豊かにする為に、新たな産業を起こし、
現金収入を増やしたい思惑がありました。
① 唐津焼は、朝鮮から渡来した陶工達により、従来の岸岳系の陶工と伴に、肥前一帯に多くの
窯を開く事に成ります。
特に現在の松浦町周辺で約30箇所の松浦系の窯跡があります。同様に武雄町の周辺にも
約25~30箇所の窯跡(武雄系)が見つかっています。その他、平戸系で約20数箇所など
総数で100箇所近い窯跡が見つかっています。
(但し、同時に100箇所ではなく、時代に幅があります。)
) 一元的でない唐津焼。これが唐津焼の魅力になっています。
出身も異なる陶工達が広い場所に多くの窯を築いた為、色々な種類の唐津焼きが生まれます
a) 窯を築く土地により、粘土の種類が異なるのは当然です。
白い土、赤土、赤黒土、肌理の細かい土、粗い土、粘り気のある土、砂混じりの土など
多彩です。当然、その土に適した作り方や作品ができます。
b) 釉にも多様性があります。白い釉(白濁釉)でも窯により、微妙に差があります。
透明に近い釉、半濁釉、白濁釉、青味を含む釉などがありますが、同じ釉であっても素地の
違いで発色は異なります。
c) 絵柄や絵の描き方なども千差万別です。朝鮮系の絵柄や我が国特有の絵柄などが描かれて
います。
) 但し、当然の事ながら、当時でもある程度の共通事項も存在します。
a) 新興の窯では、渡来人の影響が大きく、李朝中期の南朝鮮系の焼き物が強く影響した
作品が作られています。それはこだわりの無い、素朴で明るい焼き物と成っている事です。
b) 三島又は三島風の技法も朝鮮からもたらせれた物です。
その他、粉引唐津、刷毛目唐津、絵唐津、黒唐津、二彩唐津、備前唐津、瀬戸唐津など
多様な加飾の技法が出現する事に成ります。これらに付いては後日お話します。
3) 彫(ほり)唐津に付いて。
成形後、素地がまだ生乾きの状態で、竹ベラや櫛などで幾何学的で単純な紋様を彫り、長石釉を
掛けて志野風に焼いた物を彫唐津と言います。
① 岸岳古窯の一つの飯洞甕下窯から、彫唐津の茶碗の破片が発見されます。この茶碗が焼か
れたのは、1592~11593年と見られています。その背景には、文禄、慶長の役の司令部である肥前
名護屋城に、古田織部(1544~1615年)が滞陣し、近隣の岸窯に意匠を指示させて作らせた
と言う事も考えられます。
② 胴の外側全周に、大きな☓形の深い彫文様が連続して彫られ、長石釉が掛けられているのが
特徴です。又、彫込み部分に鉄絵(鉄釉)を施した彫絵唐津があります。
・ 彫唐津茶碗 銘玄界: 桃山時代(16世紀末) 飯洞甕 京都民芸館蔵。
高さ 10.1cm、 口径 12.9~14.2cm、 高台径 7.4cm
口縁は不規則な七角形で、二重高台です。胴に大きなX印の陰刻があります。
・ 彫絵唐津茶碗: 16世紀末 飯洞甕下窯、上窯より同一陶片が出土しています。
高さ 9.8cm、 口径 13.0~14.0cm、 高台径 7.9cm
胴部に箆(へら)でX印の陰刻があり、長石釉を掛けた後、陰刻の上に黒釉を掛けてあり
ます。焼成温度が低い為、長石釉が十分熔けず、高台脇の梅花皮(カイラギ)が景色と
成っています。
轆轤造りで、素地は砂気のある白土です。半筒形で口縁部を五箇所指の腹で凹ませて
あります。
4) 奥高麗(こうらい)に付いて。
以下次回に続きます。