わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸142(坪井明日香1)

2012-06-17 19:36:23 | 現代陶芸と工芸家達

女性陶芸家の地位向上を目指し、グループ「女流陶芸」を主宰しながら、所属する新匠会で活躍し、

昭和40年代に、前衛作品に転向した京都在住の作家に坪井明日香氏がいます。

1) 坪井明日香(つぼい あすか): 1932年(昭和7)~

 ① 経歴

   ) 梵鐘の研究家で、民間考古学者の坪井良平の長女として、大阪市に生まれます。

      1944年 大阪市立常盤小学校卒業後、東京に移り住みます。

      1953年 自由学園を卒業します。京都泉涌(せんにゅう)寺の釉彩工芸で、基礎を学びます。

       同年、新匠会に「蘭の花の図皿」を出品し、以後毎年出品する様になります。

   ) 1954年 富本憲吉に師事します。新匠会展に出品し、新匠賞と富本賞などを受賞します。

      1956年 新匠会会友になります。

      1957年 全国の女流陶芸家に呼びかけ、「女流陶芸」を結成します。

       以後「女流陶芸展」に毎年出品します。

      1959年 新匠会会友努力賞を受賞し、同会会員になります。同年神戸大丸で個展を開催します。

       注: 新匠会とは、1947年 富本憲吉を中心に「新匠美術工芸会」として発足しましす。

        創作による工芸作品の発表を目的としている在野の工芸団体です。

        第1回新匠美術工芸会の公募展が、同年、東京日本橋高島屋で開催されましす。

        以後毎年公募展が開催されています。1951年 「新匠会」と改名します。

      1961年 「朝日陶芸展示」に入選します。

      1965年 「女流陶芸展」(毎日新聞社主催)に招待出品します。

    1966年 訪中日本京都工芸美術家代表団の一員として、50日間中国の古い陶磁器を見て

       回ります。(この事が後の坪井が前衛陶芸に向かう切っ掛けになります。)

      1970年 「現代工芸ーヨーロッパと日本展」(京都・東京国立近代美術館主催)に「ふろしき

       A・B」を招待出品します。

      1971年 「ファエンシア国際陶芸展示」に「キモノデイマニカA・B・C・D・E」を出品し、ファエンシア

        国際陶磁博物館と、ローマ日本文化館に収蔵されます。

        同年、「現代の陶芸ーアメリカ・カナダ・メキシコと日本展」(京都、東京国立美術館主催)に、

        「笛師の戯れA・B・C」を招待出品し、京都国立近代美術館のお買い上げとなります。

        「第一回日本陶芸展」(毎日新聞社主催)に、「袖シリーズA・B」を出品します。

      1972年 新匠会に「女のおしゃべり」を出品し、富本賞を受賞します。

       尚、1976年 新匠会を退会します。

      1973年 「現代陶芸の鳥瞰(ちょうかん)展」(京都近代美術館主催)に彼女の代表作とも言える

       「歓楽の木の実」と「禁断の木の実」を出品します。両作品とも京都近代美術館の買い上げと

       なります。

      1976年 京都朝日画廊での個展で、「女・しずく・地図」シリーズの作品を発表します。

      1978年 作品「不死鳥」が、国際交流基金の買い上げとなります。

       同年 帝塚山短期大学陶芸の教授に就任します。

      1980年 「現代陶芸百選展示」(日本経済新聞社主催)に、「歓楽の木の実」を出品します。    

    ) その後も、「日本陶芸展」(毎日新聞社主催)、「クレーワーク展」(西部百貨店主催)、

      「アート・ナウ70~80年」(兵庫近代美術館主催)、「緑鬼展」(陶千房画廊)、

      「国際陶芸展」(国際交流基金主催)、「現代女流美術展」(上野の森、箱根彫刻の森美術館)、

      「京都の作家展」(福井県立美術館)、「女流陶芸in Tokyo」(東京東急百貨店)、

      「現代の陶芸1950~1990」(愛知県立美術館)、「現代京都の工芸展」(京都文化博物館)、

      「京の工芸1945~2000展」(京都・東京国立近代美術館)など、多数の展示会に出品して

      います。

   ) 海外でも「カナダ国際陶芸展」、「国際陶芸展」(ドイツ)、「現代日本陶芸展」(ハワイ)、

      「日本陶芸展」(ベルギー)、 「日華現代陶芸展」(台北)、「ユーゴスラビア国際陶芸展」など

      諸外国で作品を発表しています。  

     1984年 フランス国立セーブル製陶所製作アトリエに招聘され、渡仏します。        

   ) 個展は京都大丸(1969)、大阪大丸(1967)、東京大丸(1961)、京都朝日画廊(1976)、

      銀座和光(1982)、大雅堂(1983)等多数開催しています。

    2004年 平成16年日本陶磁協会賞の金賞を受賞します。

  ② 「女流陶芸」の結成

   ) 1953年 京都で陶芸修行を始めた頃は、作品は共同窯で焼いており、女人禁制で女性蔑視の

      風潮が強く、窯の近くにも近寄れない女性差別がなされていた様です。

      そんな環境の中で、新匠会の会員にまで、上り詰めます。

   ) 1957年に彼女の呼びかけで、我が国初の女性集団「女流陶芸」が結成されます。

      女性作家は 当初7人で後に11人になります。そのメンバーは以下の女性です。

      会員=坪井明日香、荒木薫、伊藤みちよ、塩冶友未子、奥田知子、桜井智子、高野好子、

          中島敬子、長谷川園恵、安原幸子、山内紅子、吉田里香の女性達です。

   ) 十年後に、毎日新聞社主催の「女流陶芸」公募展として、開催される様になります。

 ③ 坪井明日香氏の陶芸

以下次回(坪井明日香2)に続きます。

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現代陶芸141(里中英人2)

2012-06-15 21:43:55 | 現代陶芸と工芸家達

② 里中英人氏の陶芸

  ) 「透明な密室」: 窯の中の状態を、偶然性に寄らずに、自分の意思の通りにコントロールする事を

     里中氏は透明化と呼んでいます。

   a) 焼き物は、当然ですが窯で焼成する事により完成品になります。

     即ち、窯に入れてしまえば、後は窯任せ(貴方任せ)の状態になります。この事は他の絵画や彫刻

     書などの作品には見られません。窯の中でどの様な事が起こっているかは、見えない密室な

     状態とも言えます。その中では、酸化や還元焼成では、焼き上がりに差があり、更に窯変など

     思っても見ない状態で、窯出しする事も稀ではありません。この事が陶芸の魅力であると言う人も

     居るのも現実です。

  b) 里中氏は、制作のこの空白部分を、なるたけ排除したいと考えます。

     その為、温度を自由にコントロール出来、還元焼成の出来ない電気窯を選びます。

 ) 里中氏は次々に新たな作品を発表して行きます。

  a) 1975年 「シリーズ:ワイングラスの悪夢」(高 15 X 横 60 X 奥行 40cm)

     既製(市販されている)のワイングラスを陶土で作ったボックス(箱)に載せ、更に陶土で作った

     花を挿した作品を数個つくり、各々を温度差を付けて焼成した作品です。 

     温度差によって、ワインガラスの熔けと、倒れ具合、陶花の絡みつきに微妙な差ができます。

     ここでは、病める現代社会を表現しようとしています。

  b) 1976年「傷痕」: 鉄と土それに釉の三つを混ぜ合わせ、二重にした匣鉢(さや) の中に入れ、

     高温で完全に融合した後、徐冷中に余分な物質が表面に出て、「傷痕」の様な肌になります。

     これは、元総理の田中角栄が関係した「ロキード事件」が世間を騒がせている頃の作者

     (里中氏)の心情が傷ついた状態を表しているとされています。

  c) 1977年「シリーズ:妄想族(ぼうそうぞく)」: (高 15 X 横 40 X 奥行 120 cm)

     黒光りする陶板に若い女性を一人描き、その陶板上に一台のミニチュアカー(陶土では無く本物)

     が載っている作品です。暴走族をもじった題名になっています。

  d) 1979年「表層シリーズ:天中殺-十大恒星・十二命星」: (縦 30 X 横 20cm)

     表層、陶板、陶壁のシリーズは、火(焼成)を使用しない「アン・ファイア」と呼ばれる作品です。

     板や壁に柔らかい粘土を、平面に塗り込めます。やや厚めにします。そのまま放置して置くと

    土が乾燥収縮し、無数に亀裂が不定形に入ります。

    この作品は、この亀裂の形の美しさを鑑賞する物ではなく、土が呼吸をしている真実を表現して

    いると言われています。 1981年「陶壁・予兆空間」 (縦 2.4 X 横 12m)(文京大学図書館)、

   e) 1982年「陶板・シリーズ韻」: (縦 30 X 横 30 cm) 6個の組物

      軟らかい陶板上に、剣先で円や四角をややずらして二重書きした物や、鋭い刃物で凸状に

      切起し、対角線上に平行連続文様にした作品等です。この作品は無釉で焼成されています。

    f) その他、1985年の「黒の風景」、1987年の「シリーズ蝕:黒の風景」、 1988年の

       「陶板、予兆空間」、1989年の「予兆空間」、「僕の世紀末」と次々に作品を発表し、

       一貫して社会への提言を秘めた作品となっています。

  尚、朝日陶芸展審査員をしばしば勤め、陶芸を伝統工芸の枠から解き放ち、クレイワークという分野を

   確立する原動力となった作家の一人でした。

以下次回(坪井明日香)に続きます。

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現代陶芸140(里中英人1)

2012-06-14 21:59:18 | 現代陶芸と工芸家達

 里中英人氏が陶芸を手掛ける切っ掛けは、川端康成の「千羽鶴」を読み、志野茶碗を作りたいと思った

 事の様です。しかし、前衛集団の「走泥社」に参加し、八木一夫氏に師事する事により、現代社会に

 対する批判が喚起され、現代社会の危機感を表現する、前衛的な作品を作る様になります。

 1) 里中 英人(さとなか ひでと): 1932年(昭和7年) ~ 1989年(平成元年) (名古屋市生)

  ① 経歴

   ) 1955年 東京教育大学芸術学科を卒業します。翌年、同大学芸術学専攻科を修了します。

        専攻は工芸・建築学です。卒業後、宮之原謙氏(当ブログ44を参照)に師事します。

       1961年 東陶会に「陶彫」を出品して板谷波山会長賞を受賞し、同年の第13回三軌会

       (公募団体)展で、「陶壁」が受賞、14回同展で「陶壁」が努力賞、ブランシェ賞を受賞します。

   ) 1970年 京都の前衛集団の「走泥社」に参加し、作品を発表します。以後連続出品。

        ここで、「走泥社」の指導者である八木一夫氏(当ブログ27,28を参照)に師事します。

        尚、1979年 八木氏死亡により「走泥社」を退会します。

      1971年 銀座壱番館画廊で個展を開催します。同年 第一回日本陶芸展前衛部門に

       「シリーズ・公害アレルギー」を出品し、優秀作品賞及び、外務大臣賞を受賞します。

       作品は京都近代美術館に収蔵されます。

       又、国立近代美術館の「現代の陶芸アメリカと日本展」に招待出品します。

      1972年 外務省の「アメリカ・カナダ巡回日本陶芸展」に選抜参加します。

       同年 イタリア、フィレンシェ「国際陶芸展」に出品し、第二位に入賞し、同市の国際陶磁器

       博物館に収蔵されます。

      1973年 立正女子大学(現 文教大学)美術科教授に就任します。

       73~74年文化庁芸術家在外研修員として、アメリカ・ヨーラッパに留学します。

      1974年 第十一回日本国際美術展に招待出品を始め、イタリア国際陶芸展、日本陶芸展受賞

       作家展などに出品しています。

      1979年 国際陶芸アカデミー会員に推挙され、国際陶芸アカデミー学会会員展などの国際展や、

       イタリア国際陶芸会議、京都国際陶芸アカデミー 学会会議、パリ国際陶芸アカデミー学会

       会議など、国内外の多くの会議に参加しています。

       更に、「南青山グリーンギャラリー」、「ギャラリー松岡」(東京)、「ギャラリーちいら」(千葉県)

       などで個展を開催 しています。

   ) 1981年 世界的建築家の伊東豊雄氏の設計により、アトリエ兼住居の「笠間の家」

       (茨城県笠間市下市毛)を建築します。

      1989年 交通事故による全身打撲で死亡します。享年 56歳   

       尚、事故当時準備中であった個展は、作家の計画通り、ギャラリー森で行なわれ、

       国会議事堂を主題とした遺作「ザ・日本」が展示されました。

      2012年 里中氏死亡後空家であった「笠間の家」を、笠間市が再整備し、観光に役立てる様に

       すると報じています。

 ② 里中氏の陶芸

   ) 「公害アレルギー」の作品: 1971年の第一回日本陶芸展に出品された作品で、衝撃的な

      デビューを果たすと共に、社会派の前衛陶芸家の地位を築きます。

     a) 同じ構図の6作品が一組で、蛇口から水が滴る様子を表し、その蛇口が徐々に犯され、

        崩れ落ちて行く様子を、時系列的に並べた作品です。公害の恐ろしさを表現しています。

     b) 当時は「公害問題」が盛んに報じられていた時代でしたので、現代の文明社会に対する

       危機感は、人々の関心を集めていました。

     c) この作品は、蛇口と水滴部分を陶土に金属酸化物を混ぜ合わせ、その割合を変化する事で、

       同一温度で焼成しても、変形度合い(崩れ度合い)に違いが起こる事を発見した事が「ヒント」に

       なり、製作されたと、言われています。

  ) 「赤ちゃんの帽子」の作品: 上記「公害アレルギー」と同じ技法による作品です。

     即ち、異なった素材(陶土と酸化金属など)を焼成すると、その混合割合によって、形が変化

     する事に着目した作品です。 幼児用のヘルメット20点一組の作品で、酸化物を混ぜる割合を

     変え、同形、同容量のヘルメット型を使い、作品を作ります。これを全く同条件で、焼成すると

     その形の変化が連続して現れ、その変容を表現した作品です。

  ) 「透明な密室」

以下次回(里中英人2)に続きます。

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現代陶芸139(森野泰明)

2012-06-13 22:37:32 | 現代陶芸と工芸家達

米国のシカゴ大学に招聘され、当地の現代陶芸の影響を強く受け、独自の形と装飾の緊密な関係で

表現される装飾的で、秀でた造形感覚と洗練された色彩の融合した作品を作り続けている、

京都在住の陶芸家が森野氏です。

1) 森野 泰明(もりの たいめい)(本名 ひろあき): 1934年(昭和9)~

  ① 経歴

   ) 京都五条坂で、陶芸家の森野嘉光(当ブログ43を参照)の長男として生まれます。

     1954年 京都市立美術学校の陶磁器科に入学し、富本憲吉氏や近藤悠三氏らに師事し、

      本格的な陶芸を学びます。(陶磁器科は、1952年に新設されています。)

     1957年 在学中に「焼き締めの壺」が日展に初入選します。陶磁器科を修了後、専攻科に進み

      更に、非常勤講師として研究室に残り、陶芸研究を続けます。

     1960年 第四回日展で「青釉花器」が特選で北斗賞を受賞します。

     1962年  シカゴ大学美術部より、陶芸講座の講師として招聘され、渡米します。

      1962~63年、1966~68年の二度に渡り、米国で作陶活動を行います。

      この事が、彼に大きな影響を与える事になります。

     1967年 ファンエシャ国際陶芸展に出品。アメリアデュポア陶芸展審査員。オワイオ州アート

      センターで個展を開催します。

     1968年 現代工芸展で会員賞と外務大臣賞を受賞します。同年日展審査員、翌年には

      日展会員になります。後年日展理事に就任します。

     1971年 東京と京都国立近代美術館の「現代陶芸ーアメリカ・カナダ・メキシコと日本展」に

      出品します。同年第一回日本陶芸展に推薦招待され、以後毎回出品します。

     1973年 京都近代美術館の「現代工芸の鳥瞰展」に出品します。

     1974年 「京都近代工芸秀作展」に出品します。

     これ以降も、アメリカ・デンバー美術館、デンマーク王立工芸美術館、パリ・装飾美術館など、

     海外の美術館に出品し、国内でも東京池袋西武、赤坂グリーンギャラリー、東京和光ホール、

     福井県立美術館などで、出品や個展を開催しています

     1983年 日本新工芸展で文部大臣賞を受賞します。

     2007年 扁壺「大地」で芸術院賞を、その他日展理事、日工会常務理事などを勤めています。

     2009年 平成21年度 日本陶磁協会賞金賞を受賞します。

 ② 森野氏の陶芸

   ) 米国の抽象表現主義陶芸の影響

      第2次世界大戦後に絵画を中心に起った、抽象表現主義に呼応する形で、現代美術の中から

      土に激しい感情をぶつけた、アメリカ 現代陶芸の革新が、カリフォルニアから起ります。

      シカゴ在住中に当時米国で全盛期にあった、抽象表現主義陶芸に接し、日本の伝統的

      陶芸には無い土や造形に対する認識の差を実感します。

   ) 米国の陶芸の現状を知り、改めて自己の陶芸を模索します。

      即ち、作品の形体や構成美、装飾性(文様感覚)について探求する事に成ります。

   ) やがてそれらは、四角な方形を基本にした、幾何学的な形体を採る様になります。

      手捻りやタタラによる成形で、立方体、円筒、球体で構成する造形美に到達します。

      無用途なオブジェ作品から、用途性を有する花瓶や扁壺まで手掛けています。

      文様についても、従来の絵画的絵付け方法から、形と文様の一体化を目指します。

      「立体から生まれる文様、文様から生まれる立体」と、彼は述べています。

   ) 釉を掛けて焼成しますが、時には釉の替わりに顔料を塗る事で、土の素材感を生かしています。

      又、金銀彩文様を採り入れてもいます。

 ③ 森野氏の作品

    「祭祀(さいし)」(高 40.5 X 横 29 X 奥行 29cm)(1969年)

    「海碧(かいへき)」(高 39 X 横 28 X 奥行 27cm)(1972年)

    「揺(よう)」(高 25.3 X 横 25 X 奥行 25cm)(1982年)

    「WORK(ワーク)83-1」(高 53 X 横 47X 奥行 8cm)(1983年)

    「藍深花瓶」(高 26.6 X 幅 21.6 X 口径 17.4cm)

    「WORK 10-11」、「WORK 10-12」(2010年)等の作品があります。

次回(里中英人)に続きます。    

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現代陶芸138(柳原睦夫2)

2012-06-12 21:17:58 | 現代陶芸と工芸家達

  ② 柳原 睦夫氏の陶芸 

   ) 数度の渡米によって、アメリカ現代陶芸に触れ刺激を受け、鮮やかな色彩と装飾を取り込み、

      官能的なホルムを基に、従来の美意識に反逆した、新しい現代の美意識の確立を目指します。

      柳原氏の作品は、師の富本憲吉氏が色絵磁器の分野出確立した、日本の伝統的な

      焼き物の美意識である「端正で高雅」とは、対極にあると思われます。

      しかし、「富本氏の仕事と深い繋がりが有る」と見なす意見も有ります。

   ) その意見によると、富本氏の「模様から模様を作らず」の言葉の通り、従来の模様を離れ

      金銀彩や鮮明な多色文を使用する事は、富本氏の境地を発展させる事に成るそうです。

      又、足利義満の金閣寺(西山文化)や、秀吉の桃山文化、尾形光琳などの元禄文化等に

      金銀は、歴史的にも刺激的に使われています。それ故柳原氏が作品に金銀を多用する事は、

      必ずしも、伝統文化に反するものではないとの意見です。  

   ) 梨地様金銀彩と光沢のある金銀彩を併用する事で、変化のある文様を作り出します。

      金や銀で光沢を押さえた梨地を作るには、以下の方法をとります。

      本焼きした作品に、金液などで上絵付けを施し、800℃程度の温度で焼成します。

      この段階では、光沢のある金銀彩と成ります。これを特殊の方法(瑪瑙や細かい砂)で磨く

      (表面を荒らす)と、光が乱反射して梨地面が現れます。

      更に金液などを塗り再度焼成し、磨きを繰り返す事とにより深みのある、梨地面となります。

      作品としては、「金銀彩彩文花瓶」(高 46 X 径32cm)(1983年)、

      「金銀彩彩文花瓶」(高 34.5 X 径26.5cm)(1984年)などです。

      器形は凸形で、下部は丸味と厚みのある円形又は方形で、その上に円筒状の物又は、

      上部縁がえぐられた円筒形に成っています。

      その表面に、波紋の様な線状文が不定形に描かれている作品です。     

   ) 紺釉金銀彩: 彼の使用する釉は、主に灰釉の透明釉ですが、紺釉は彼の唯一の色釉です。

      作品の内側に使う事が多いのですが、作品の装飾模様(水玉)と組み合わせてたり、金銀彩と

      併用して使われています。作品として、「紺釉金銀彩花瓶」(高 55 X 径 31cm)(1971年)、

      「紺釉金銀彩花籠」(高 31.2 X 径 22.3cm)(1971年)等があります。

      尚、水玉文は、版画的手法(ペーパー、レジスト)を駆使し、大小様々な水玉文様を描き

      出しています。

   ) 彩色文:色化粧掛けにより、紅、黄、青等に着色し灰釉を掛け、電気窯で酸化焼成しています。

      化粧掛けは、刷毛による平塗りの他、エアブラシを使いグラデーションを付ける場合もあります。

      作品として、「紅彩陶作品83/9」(高 67 X 径 40cm)、「黄彩陶作品83/3」(高 50 X 径 39)

      (1983年)などです。器形は「こけし」を大きくした様な作品です。

    ) その他の作品

      「黄オリベ・直立後屈瓶/黄オリベ・斜行後」(66.0×44.5×21.5、75.0×31.3×19.0)

       (2点組)(1995) 国立国際美術館。

      「破顔笑口壺」(高65.5 X 横34.5 X 奥行 36.5)国立近代美術館。(1990)

      「黒オリベベロット瓶」(高 44 X 横 44 X 奥行 41)東京国立近代美術館(1997)

      など、多くの作品が東京、京都近代美術館、国立国際美術館などに、買い上げ

      展示されています。

以下次回に続きます。

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現代陶芸137(柳原睦夫1)

2012-06-11 21:40:36 | 現代陶芸と工芸家達

日本の陶磁器造形の世界に「思想性」を導入し、従来の文様や伝統的技術、釉などの常識を破り、

「けばけばしい」とも思われるほど金銀を多用して、作品を発表し続けている人が、京都在住の

柳原睦夫氏です。

1) 柳原 睦夫(やなぎはら むつお): 1934年(昭和9年)~

 ① 経歴

  ) 愛媛県宇和島市に柳原範夫の次男として生まれます。

     1954年 京都市立美術大学(現 京都市立芸術大学)工芸科陶磁器専攻に入学し、富本憲吉氏や

       近藤悠三、藤本能道氏らの指導を受けます。

     1959年 モダンアート展に初入選します。

      注:モダンアート展はモダンアート協会主催の公募展で、東京、名古屋などで開催されます。

     1960年 京都市立美術大学 専攻科を修了し、助手になります。

      同年、モダンアート展で、協会賞を受賞します。

     1961年 集団現代彫刻展及び、朝日新人展、若い世代の陶芸展(京都作陶集団主催)に

      出品します。 又、個展をサトウ画廊(高知市)で開催します。その後もギャラリー16(京都)や

      スルガ台画廊(東京銀座)等で個展を開いています。

     1966年 米国ワシントン州立大学陶芸科の講師として招聘を受け、渡米します。

     1967年 同大学の付属美術館を始め、オレゴン州の現代工芸画廊、サンフランシスコ等で、

      多くの個展を開いています。同年帰国し、大阪芸術大学陶芸科助教授に就任します。

      尚、1986年に大学教授に、現在は名誉教授となっています。

     1971年 フェレンツェ国際陶芸展で入賞、第一回に日本陶芸展(毎日新聞社主催)に入選します。

       又、毎日選抜美術展、アメリカ、カナダ、メキシコでの「現代の陶芸ー日本展」(京都国立

       美術館主催)に出品します。

     1972年 ニューヨーク州立アルフレッド大学の助教授として、招聘され渡米します。

      翌年には、スクリップス大学の助教授に就任しています。この間各地で個展を開催します。

     1974年に帰国後、今橋画廊(大阪)、朝日画廊(東京日本橋)、高知大丸、東京伊勢丹

      などで、多くの個展を開いています。

     2002年度日本陶磁協会賞金賞を受賞します。

     2012年4月 「喜寿記念柳原睦夫展 -開く形-」個展を、東京日本橋の高島屋東京店

      美術画廊で開かれました。

  ② 柳原睦夫氏の陶芸

    ) 作品の特徴: 1971年に発表した「紺釉金銀彩壺ーカルフォルニアシャワー」

       (高 50 X 径 50cm)から「梨地様金銀彩多色文」を経て現在に至るまで、始終一貫した

      ものが認められます。それは以下の事柄です。

     a) 金銀彩の多用です。どぎつく、けばかばしいと感じる程使用しています。

     b) 強烈な原色調の紺釉や、色化粧土の多用です。

     c) 水玉模様の他、鮮烈で妖艶な装飾文を取り入れている事です。

     d) 製作に当たり、従来の技術や技法を排除しています。

     e) 特殊な素地や釉を使わず、極普通のものを使用している事です。

       誰ででも入手可能な、素材や技術(技法)、釉を使う事により、作品を作る事を自分に課して

       いる様に見えます。

     f) 柳原氏独自の造形を追求し、「普通の器物の常識を破った有機的形態」と評される作品を

       作り続けている事です。

     g) いかなる団体展にも属さず、無所属でフリーの立場で、国際的に活躍している事です。

    ) 数度の渡米によって、アメリカの現代陶芸に触れ、鮮やかな色彩と装飾を取り込み、

       官能的なホルムを基に、従来の美意識に反逆した、新しい現代の美意識の確立を目指します。

以下次回(柳原睦夫2)に続きます。   

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現代陶芸136(今泉今右衛門3)

2012-06-09 21:53:51 | 現代陶芸と工芸家達

2) 十四代今右衛門(今泉雅登): 1949年(昭和24) ~

  ① 経歴

    ) 佐賀県有田町に十三代今右衛門の次男として生まれます。

       1985年 武蔵野美術大学、工芸工業デザイン学科(金工専攻)を卒業します。

       1988年 京都の陶芸家、鈴木治氏に師事します。

    ) 1990年 有田に帰郷し、十三代今泉今右衛門の下で家業に従事し、色絵磁器の世界に

        入り、色鍋島の文様、空間の取り方など、色鍋島全般について勉強、修行します。

       1998年 日本伝統工芸展で、「染付墨はじき梅花文鉢」で工芸会会長賞を受賞します。

    ) 2002年 前年父の他界により、十四代代今泉今右衛門を襲名します。

        同時に、「色鍋島今右衛門技術保存会」の会長に就任します。

       2003年 十四代今泉今右衛門襲名披露展を、日本橋三越などで開催します。

       2004年 日本伝統工芸展で、東京都知事賞を受賞します。

       2010年 個展「十四代今泉今右衛門展」を開催します。

       2011年 イタリア、ローマ、フォリ・インペリアーリ博物館で「ラ・ルーチェ展」に出品されるなど、

       国内外で活躍しています。 又 平成23年度 日本陶磁協会賞を受賞しています。

 ②  十四代今右衛門の陶芸

     磁器に白化粧を用いる「雪花墨はじき」の技法や、新たな上絵技法「プラチナ彩」など、

     伝統に自らの創意を吹き込み、現代における色鍋島を精力的に追及しています。

   ) 1990年に帰郷するまで、主に立体的、オブジェ的な作品を作っていましたが、

      家業を手伝う様に成ると、平面的な絵画である上絵付けの仕事をする様になります。

   ) 墨弾き(すみはじき)技法: 2003年の襲名披露展で、初めて発表します。

    a) 素地(きじ)に墨で文様を描き、その上に呉須を塗ると、墨に含まれる膠(にかわ)分が

       撥水剤の役割を果たし、これを素焼き程度の温度で焼成すると、墨が飛んで白抜きに

       成ります。その後、透明釉を掛けて本焼きします。

    b) この技法は、江戸期より鍋島で使われ、鍋島藩窯では青海波文や紗綾形(さやがた)文など

       細かい連続文様が多いです。主文様として使われる事は少なく、地文様(背景)として

       使われる事が多く、脇役としての表現になります。

     ・  注:紗綾形文とは、卍(まんじ)つなぎの一種で、卍を斜めに連ねた連続文様です。

        紗綾の織りに、多く用いられるところから名付けるらます。

    c) この「墨はじき」の技法を、現代の色鍋島の制作に取込みます。

       更に、脇役であったものを主文様として、取り扱う様になります。

    d) 「藍色墨はじき」「墨色墨はじき」、更には墨はじきを重ねていく「層々墨はじき」や、

       微妙な白の雰囲気の「雪花墨はじき」と意欲的に作品作りに励み、品格の高い現代の

       色鍋島を作りだしています。

      ・ 注: 「雪花墨はじき」は、磁器に白化粧土を用いて白の微妙な世界を表現し、雪の結晶が

           白く浮き出て見える様な美しい作品です。 「色絵雪花墨はじき菊唐花文蓋物」など。

    e) 十三代が創案した「薄墨」技法と組合わせた、「薄墨黒はじき」の作品も作っています。

       「色絵薄墨墨はじき雪文鉢」、 「色絵薄墨墨はじき草花更紗文額皿」: 高さ6.4 X 径38.0㎝、

       「色絵薄墨墨はじき果実文花瓶」、「色絵薄墨墨はじき四季花文花瓶」等があります。

   ) 鍋島の作品は、従来より目に見えない所に、心配りをしています。

      高い高台、櫛目などの高台文、表文様に匹敵する程の裏文様、緊張感のある筆致、

      斬新且つ精巧な構図など、細かい神経と手間隙をかけて、最高の色絵磁器が創り出さ

      れています。十四代も例外では有りません。

   ) 「プラチナ彩」:上絵付にプラチナを用い銀色に発色させる方法で、積極的に使用しています。

      「色絵雪花藍色はじき唐花更紗文ぐい呑」(高 5.6 X 径 5.8cm) :「雪花」という白い地紋に

      プラチナ彩が施されてるぐい呑です。 「色絵雪花墨はじき菊唐花文蓋物」の桃形の蓋の

      摘み部にプラチナ彩が使われています。

以下次回(柳原睦夫)に続きます。

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現代陶芸135(今泉今右衛門2)

2012-06-08 21:23:57 | 現代陶芸と工芸家達

 十三今右衛門代を襲名して家業を継いだのは49歳の時でした。

 襲名と同時に、色鍋島様式に彼独自の表現を付け加える必要を感じ、新たな技法を模索します。

 その結果、従来の色鍋島には無く、初期伊万里にある「吹墨(ふくずみ)染付」の技法を見出します。

 更に、薄い墨色の吹墨風技法「薄墨(うすずみ)」を開発します。この技法は、従来の殻を破りながらも、

 色鍋島独特の品性を備えた作品と成ります。

② 十三代今右衛門の陶芸

  ) 薄墨(うすずみ)技法: 吹墨の手法を使って、薄墨色に色を出す方法で、薄墨の名は十三代の

    作品特有の名称です。

   a)  吹墨とは、呉須を噴霧器などで霧状にして、作品に斑点状の絵付けを行う染付けの一種です。

     中国明の末期に作られた古染付に見られ、我が国でも初期伊万里の作品に見られます。

     一般には、文様の背景部に墨を塗る事が多く、文様部に渋紙などで覆い、その上から呉須を

     噴霧します。 噴霧後渋紙を取り除くと、その部分が抜けて白くなります。

  b) 鍋島藩窯では見受けられませんが、十三代今右衛門はこの技法を取りいれます。

     1976年の襲名記念の最初の個展で発表しています。

     「色鍋島吹墨薔薇文花瓶:(高 25.5 X 径 31cm)(1978年)や 「色鍋島吹墨蕪文花瓶」

     (高 21.2 X 径 25cm)(1976年)などの作品です。

  c) 薄墨色は、呉須に替えて酸化ウラン系の絵具を使い本焼きによる釉下着色です。

    この技法は、十三代今右衛門によって初めて使用され、彼の作品に多用される様になります。

    「色鍋島薄墨露草文鉢」(高 21.6 X 径 36.9cm)(1981年)、「色鍋島薄墨草花文鉢」

    (高 7.2 X 径 41.5cm)(1979年)、「色鍋島薄墨牡丹文花瓶」(高 58.6 X 径 3o.8cm)

    (1982年)、「色鍋島薄墨芒文花瓶」(高 21 X 径 28.5cm)(1982年)等の作品があります。

  ) 薄瑠璃(うするり):広い面積を藍色で一様な色調に塗る方法です。

     筆で塗ると濃淡斑が出てしまいますので、呉須を薄く水に溶き、器の中に流し込んで着色する

     方法です。(瑠璃釉とは異なります。)手順は以下の様に行います。

    a) 素焼き後、呉須で文様を線描きします。

    b) 文様を墨でなぞり、着色します。

    c) 墨の部分を防染してから、呉須液を器に流し込みます。 

    d) 素焼き程度の温度で焼成すると、墨は燃えてしまい、その部分が白く抜けます。

    e) 更に透明釉を掛けて本焼き後、白い部分に赤や緑色で上絵を施し、再度焼成焼付けます。

      「色鍋島薄墨瑠璃羊歯文鉢」(高 11 X 径 44cm)(1975年): 松下美術苑

 ③ 裏文様について

  ) 色鍋島の皿や鉢類には、一つの約束事があるそうです。裏面や高台部に模様を施す事です。

      これを裏文様と言います。古伊万里や柿右衛門にも一部見られますが、鍋島では必要不可欠な

      意匠の一部と成っています。

  ) 図柄は七宝結文や牡丹などの花文が多く、赤い薔薇など西洋風の花の場合も有る様です。

  ) 高台部には、櫛目文や七宝文、蓮弁文などが多く、表文と調和の取れた意匠に成っています。

  ) 但し、表文様と裏文様とは必ずしも関連している訳ではなく、裏文様はあくまで裏文様として

     独立した存在に成っています。裏であるからと言い、手を抜く事も無く、非常に丁寧に描かれて

     いるのも、色鍋島の特徴に成っています。

  ) 十三代の作品は、表文様と裏文様が関連つけられた文様を選んでいる様です。  

2)  十四代今右衛門(今泉雅登): 1949年(昭和24)~

以下次回に続きます。

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現代陶芸134(今泉今右衛門1)

2012-06-07 22:19:21 | 現代陶芸と工芸家達

佐賀県有田の今泉今右衛門窯の色絵磁器は、鍋島藩窯として江戸期より350年余りの「色鍋島」の

伝統があります。しかし明治の廃藩置県により、鍋島藩窯がなくなり御用赤絵屋の制度も消滅します。

その反面、色々な規制も無くなり、一貫した磁器生産が可能になり、十代今右衛門は明治六年に

本窯を築き、色鍋島の他、古伊万里様式の磁器の製造にも踏み切ります。

明治~大正初期にかけて技術的、経営的にも苦難の日々でしたが、その苦境を乗り越え、代々の

今右衛門により優れた赤絵の技法が確立し、高い品格を持つ「現代の色鍋島」に発展します。

赤絵の調合技術等については、一子相伝の秘法として当代の十四代まで伝えられ、その卓越した技術は

国の重要無形文化財保持団体の認定を受けています。

1) 十三代今泉 今右衛門(いまいずみ いまえもん): 1926年(大正15)~2001年(平成13)

  ① 経歴

   ) 佐賀県有田町赤絵町の十二代今右衛門の長男、善詔(よしのり)として生まれます。

      1943年 佐賀県立有田工業学校を卒業後、東京美術学校(現在の東京芸術大学)工芸部

       図案科に入学し、1949同校を卒業します。

      1957年 日展に「色絵水草文花器」が初入選を果たし、以後1958~59年と連続入選します。

      1962年 第九回日本伝統工芸展で、「白磁染付色絵更紗文壺」を出品します。

       第十二回の同展で「色絵手毬花文鉢」が、日本工芸会会長賞を受賞し、日本工芸会

       正会員に推挙されます。 同年 一水会陶芸展で初入選を果たし、翌年の同会で「染付石榴

       (ざくと)文鉢」で、一水会会長賞を受賞し、一水会陶芸部会員に推挙されます。

      1964年 米国、欧州に陶芸視察を行っています。

      1968年 京都国立近代美術館にて「色絵笹輪文鉢」が買い上げとなります。

      1971年 今右衛門陶房の技術者達で「色鍋島技術保存会」を作り、国の重要無形文化財の

       総合指定を受けます。

      1972年 「色絵かるかや文鉢」が東京近代美術館の買い上げとなり、陳列されます。

      1975年 十二代が他界により、十三代今右衛門を襲名します。

      1976年 「色鍋島技術保存会」を改組し代表となり、文化庁より重要無形文化財の総合指定を

       受ます。同年東京と大阪の高島屋で初の個展を開催します。

      1979年 日本伝統工芸展出品作「色鍋島薄墨草花文鉢」が、NHK会長賞を受賞し、文化庁の

       お買上げとなります。

      1980年 日本伝統工芸展監査委員となり、1982年、83年、85年、87年に 日本伝統工芸展

       鑑査委員となります。

      1981年 日本陶芸展で「色鍋島薄墨露草文鉢」が最高賞の秩父宮杯を受賞します。

      1989年 重要無形文化財個人指定(人間国宝)に認定されます。

  ② 十三代今右衛門の陶芸

   1975年に今右衛門を襲名する以前では、善詔(よしのり)の名前で、作品を発表していました。

   色鍋島の古典をふまえ、自然観察から得た文様を基礎に、個性的な作品を発表し、1965年の

   日本伝統工芸展では奨励賞を受けています。

   ) 色鍋島: 鍋島藩窯で、上絵付された色絵磁器を「色鍋島」と呼びます。

      染付けのみの場合には、「藍(あい)鍋島」と呼んでいます。

       「色鍋島手毬(てまり)花文鉢」(高 7.9 X 径 42.5cm)(1978年)、「色鍋島笹文鉢」

      (高 9.1X 径 41cm)(1967年): 京都国立近代美術館蔵、などの作品です。

   ) 更紗文:染織文様の一つで、インド更紗のほか、ジャワ更紗、ペルシャ更紗、シャム更紗など、

      様々な種類があり、一般にはインド風の唐草、樹木、人物などの文様を言います。    

    a) 東京美術学校図案科に在学中から、更紗文に興味を抱き、そこから多様な文様を作りだします。     

      特に中近東の更紗を好み、十三代の重要な意匠の一つと成っています。

      「色鍋島草花更紗文花瓶」(高 21 X 径 25cm)(1978年)等の作品です。

    b) 染付の青と上絵の緑だけで表現される緑地(りょくじ)技法が代表的です。

      「色鍋島緑地唐花文蓋物」(高 19 X 径 23cm)(1978年)、青と緑の他、赤絵を施した作品も

      あります。「色鍋島緑地更紗文花瓶」(高 40.2 X 径 22.3cm)(1982年)等の作品です。

   ) 唐花文: 途切れる事の無い蔓草(つるくさ)状の文様で、特定な花を意味しない花文の

      文様を言います。基本的には唐花文と更紗文は同類です。

    a) 唐花文と更紗文の違いは、「規則的に花が配置されている文様が唐花文で、不規則に配置

      した場合が更紗文です。」と十三代目は述べています。

   b) 有職文(ゆうしょくもん): 幾何学的な繰り返し文様で、平安貴族(公家)に好まれた文様です。

     「色鍋島有職文花瓶」(高 27.5 X 径 25.5cm)(1980年)

  ) 薄墨技法

以下次回に続きます。

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現代陶芸133(酒井田柿右衛門3)

2012-06-06 22:11:25 | 現代陶芸と工芸家達

何度もお話している様に、作品の製作者は「酒井田柿右衛門」と成りますが、実際の製作は熟練した

職人が仕事を分担し、そのチームの統括者(この場合柿右衛門)が、デザイナーとして表に出たものと

考えた方が実情にあっていると思われます。

但し、十三代、十四代とも、濁手の作品は無銘で、染錦作品には「柿右衛門」の銘が染付けで

記されています。

2) 十四代酒井田柿右衛門 : 1934年(昭和9)~

 ① 経歴

  ) 佐賀県西松浦郡有田町南川良で、十三代柿右衛門の長男、正(まさし)として生まれます。

     1958年 多摩美術大学日本画科を卒業します。卒業後、帰郷し、祖父と父親に陶画の手ほどきを

      受けます。祖父からは絵具の指導を受けます。

     1966年 一水会展(油彩、水彩画展)に初出品し、入選を果たし、翌年には一水会会長賞を

      受賞します。以後連続入選します。

     1968年 第十五回日本伝統工芸展で、「南天文花瓶」が初入選を果たします。

      翌年の同展で「紅葉文鉢」を、以降毎回入選を果たし、「草花文花瓶」「魚草文大鉢」

      「花弁椿文花瓶」「草花文鉢」「あかしあ文鉢」「秋草文壺」「山躑躅(つつじ)文壺」などの作品を

      発表し続けています。

     1970年 ヨーロッパ各国の美術館や窯場を視察し見聞を広めます。

      特に、オランダ貿易によって欧州にもたらされた、初期柿右衛門の作品に触れる事になります。

     1971年 「酒井田正」の名前で日本工芸会会員となり、この後のほぼ10年は本名で公募展や

      個展に出品した。個展は東京日本橋三越の他、福岡、大分など各地で開催しています。

    1982年 十三代死亡により、十四代酒井田柿右衛門を襲名します。

     (尚、襲名とは、裁判所に改名届け出して、本名を変更するとの事です。歌舞伎の世界では、

      単に芸名の変更であるのに対し、本名の変更になります。)

     翌年 米国のサンフランシスコで、初の海外に出品します。

    2001年 重要無形文化財「色絵磁器」の保持者(人間国宝)に認定されます。

     又、重要無形文化財「濁手(にごしで)」の技術保持団体である、柿右衛門製陶技術保存会の

      会長にも成っています。

  ② 十四代柿右衛門の陶芸

   ) 絵具 : 柿右衛門様式では、赤絵や図柄を美しく表現する絵具が命です。

       柿右衛門家では、門外不出の「絵具合わせ帖」に従って調合していました。

       色は赤、緑(もよぎ)、群青(ぐんじょう)、黄(きび)、黒などです。

       戦後の混乱期には、原料の新旧交代が行われ、大量生産に応える為、化学的に精製された

       顔料が使われ、従来の色彩と異なり、弱々しいうすぺらな色になってしまいます。

       祖父(十二代)は孫と伴に、大阪、京都、岐阜などの古くから取引のある絵具屋を回り良い

       顔料を求めます。こうした苦労が実り「昭和の絵具合わせ帖」を作ります。

   ) 十四代の作品   

       父と祖父が蘇らせた「濁手」(にごして)の技法などを使い、細やかな筆使いで、新しい独自の

       様式を世に示します。

       十三代と同様に草花文様(特に躑躅文を好む)を得意とし、絵画的な表現が評価されます。

       「山躑躅文壺」(高 26 X 径 34.5cm)(1979年)、「躑躅花瓶」(高 30.4 X 径15.4cm)

       (1979年)、「躑躅陶筥」(高 6.7 X 横 13cm)(1979年)、

       「小手毬文蓋物」(高 11.2 X 径 21cm)(1979年)、「栗文鉢」(高 12 X 径 42.5cm)

       (1979年)、「芙蓉地文花瓶」(高 20.7 X 径 26.7cm)(1980年)、

       「躑躅文鉢」(高 9.6 X 径 46.8cm)(1981年)、「苺文花器」(高 24.7 X 径 14.5cm)

       (1982年)などの作品があります。

次回(今泉今右衛門)に続きます。

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