わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸132(酒井田柿右衛門2)

2012-06-05 21:26:02 | 現代陶芸と工芸家達

明治維新後の陶磁器業界は、輸出に活路を見出す為に、欧米風の意匠に囚われ、わが国の伝統的

様式は忘れられた感となります。しかし、大正時代になると、小学校の教科書(5年生の国語)に

「陶工柿右衛門」が掲載されたり、歌舞伎などでも「名工柿右衛門」が上演される様になり、柿右衛門の

赤絵が再認識される様になります。しかし、新作の柿右衛門の需要はほとんど無かったそうです。

十二代柿右衛門は、職人気質の名工でしたが、古い伝統に埋もれ、新しい仕事に熱意が感じられず、

これに反発した十三代は、単に古作の復元や模写ではなく、新味のある意匠や器形に挑戦しています。

 ④ 十三代柿右衛門の陶芸

  ) 写生による図案の創作

    新しい意匠を得る為、全国をスケッチ旅行しています。特に人が余り行かない所に咲く、野の花を

    愛し、露草、合歓(ねむ)の花、蓼(たで)、雪持椿、自然薯(じねんじょ)などから画材をえます。

    又、西洋的な意匠として、カーネーションやグラジオラスなども取り上げています。

    当然、図案化するに当たり、写生に忠実である必要は無く、花の色や葉が他の色に変化する事も

    あります。

  ) 十三代の作品

    「濁手花鳥文蓋物」(高30.7 X 径32cm)(1972年):この作品は、文化庁の要請で復元した

    作品で、柿右衛門様式の見本として著名な作品です。

    着色は全て上絵付けで、花の赤絵部分は赤色で、その他は黒色で線描きした後、着色しています。

     注: 一般に磁器の絵付けは、下絵である呉須などでの染付けと、上絵付けを併用する場合が

         多いです。即ち上絵付けの輪郭を染付けの技法で描いた後、上絵具で着色します。

    「濁手竹蝶文鉢」(高6 X 径44.5cm)(1969年):松下美術苑

    「濁手グラジオラス文鉢」(高7.7 X 径43cm)(1973年)、「濁手蓼文大鉢」(高9.5 X 径44.5cm)

    (1975年)、「濁手雪持椿文壺」(高22.5 X 径27.2cm)(1975年)、

    「濁手花鳥文壺」(高33.9 X 径32.3cm)(1979年)等の作品があります。

   又、濁手以外にも赤絵の具を使い地を塗り込めた、赤濃(あかだみ)技法に金彩を施した作品も

    あります。その作品は、「花鳥文壺」(高28.9 X 径33.2cm)(1975年)等です。

   更に、濁手素地に地紋を付ける技法もあります。「濁手花地文壺(高40.6 X 径25.5cm)

    (1981年)等の作品があります。

2) 十四代酒井田柿右衛門、本名は酒井田正: 1934年(昭和9)~

以下次回に続きます。 

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現代陶芸131(酒井田柿右衛門1)

2012-06-04 21:51:37 | 現代陶芸と工芸家達

明治に入り、苦境に落ちっていた柿右衛門窯を、父十二代柿右衛門を盛り立てながら、江戸時代後期に

絶えていた、「濁手(にごして)」の技法を復興させ人で、伝統的な柿右衛門様式の中に、写生から得た

新しい図案を創造し、昭和の柿右衛門様式とも呼ばれる技法を開発して、「柿右衛門中興の祖」とも

言われているのが、十三代柿右衛門です。

又、1971年には、国の重要無形文化財として総合指定されています。

1) 十三代酒井田 柿右衛門(さかいだ かきえもん)本名は渋雄: 1906年(明治39)~1982年(昭和57)

  ① 経歴

   ) 佐賀県西松浦郡曲川村(現、有田町)で、十二代柿右衛門の長男として生まれます。

     1924年 佐賀県立有田工業学校、製陶科を専攻し卒業します。

      同校では、彫刻、轆轤、釉薬や窯焚きの実習を受けています。

     1953年 初代柿右衛門300年祭を記念して、十二代と伴に濁手素地の復興を果たします。

     1955年 濁手による、「柿右衛門」の製陶技術が、無形文化財に指定されます。

      (当主は十二代柿右衛門)

     同年 第二回日本伝統工芸展に「色絵八角大鉢」を出品し、日本工芸大賞を受け、

      第四回同展で、「色絵草花文蓋物」が文化財保護委員会長賞を受賞します。

      これらの作品は、第十二代の名前で出品しますが、実際は、十二、十三代との合作とみなされて

      いる様です。

    1963年 十二代が他界し、十三代柿右衛門を襲名します。

    1964年 日本工芸会正会員になります。

     同年、大阪の大丸で「十三代柿右衛門襲名展」を開催します。

    1966年 佐賀県の重要無形文化財に指定されます。

    1969年 「濁手瓢形壺」一対を、宮内庁新宮殿御用品として、献納します。

     翌年「濁手菊鳥文壺」が外務省のお買い上げと成ります。

    1971年 柿右衛門製陶技術保存会を結成し、会長になります。

     同年濁手の技法が国の重要無形文化財に統合指定されます。

     又、人間国宝展、日本陶芸展、海外展など内外の陶芸展に出品しています。

     更に、「濁手露草文鉢」など三点が宮内庁お買い上げとなり、「濁手花鳥文陶額」が外務省

     お買い上げと成ります。

    1972年 外務省主催の「現代色絵陶磁展」がヨーロッパ5ヶ国で開催されます。

    1973年 重要無形文化財国家指定記念柿右衛門・今右衛門展を開催します。

    1974年 迎賓館展示品として「濁手梅花文壺」を納入します。

    1975年 東京日本橋三越で、十三代柿右衛門展を開催します。これ以降、東京、佐賀、北九州市、

     大阪高島屋、名古屋松坂屋、福岡岩田屋、盛岡川徳など各地で、個展を開催しています。

  ② 柿右衛門様式

   ) 代々の酒井田柿右衛門が確立した肥前磁器の一様式で、余白を生かした絵画的な構図と、

     乳白色の胎土(濁手=にごして)に、赤絵を中心に、藍、緑、黄、紫を用いて、上絵付けを施した

     作品の様式です。

   ) 十三代柿右衛門は、従来の様式に加え金彩を取り入れています。

      又、伝統的な構図や器形の他に、自ら写生した野草や花、果実類を好んで取り上げ、昭和の

      柿右衛門様式を確立しました。

  ③ 濁手の再現: 濁手とは佐賀地方では「米のとぎ汁」を「にごし」と呼ぶそうで、これに似た色の為

     この名前が付いたといわれています。

   ) 美しい赤絵を表現するには、濁手と呼ばれる乳白色の磁土が必要不可欠です。

     しかしこの技法(土の調合)は、5~6代柿右衛門の頃絶えてしまいます。

     この再現を目指して1959~1960年頃から研究を始めます。

   ) 家伝来の「土合帳(つちあわせちょう)」を頼りに、思考錯誤を繰り返します。

      その結果再現に成功します。即ち三種の土(石)を粉砕し、水簸(すいひ)し調合します。

      それは泉山(いずみやま)の土を基本にし、白味を出す為の白川谷(しらかわたに)土三割、

      耐火度のある岩谷川内(いわやごうち)を一割ほど入れ、釉を薄く掛け焼成すると温か味のある

      磁肌になります。その結果は1953年の柿右衛門300年祭の記念展覧会で初公開されます。

 ④ 十三代柿右衛門の陶芸

以下次回に続きます。    

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現代陶芸130(三代上出喜山2、四代喜山)

2012-06-03 21:13:31 | 現代陶芸と工芸家達

③ 三代上出喜山の作品

   彼の作品は、戦後を境に前期と後期に分かれます。

  ⅰ) 前期の作品は、主に「染付」の作品を多く作っています。九谷庄三写しや、吉田屋風の作品

     で、彼なりに変化をもたらしています。

     「染付火鉢」(高 23.5 X 径25.7cm)昭和初期、「染付六角耳付花生」(高 27 X 径13.5cm)

      (1955年)等の作品が有ります。

 ⅱ) 後期では、金襴手更紗小紋様式を確立し、豪華絢爛な作品となっています。

     金襴手とは: 本焼きした色絵の作品に、金箔を漆で貼り付けた後低温で焼き付けた物で、

     織物の金襴の趣(おもむき)が感じられ、この名前が付いています。

  ⅲ) 彼の金襴手は、赤、黄、緑、青、藍などの数種類の色絵で彩色した、細微な小紋の余白部分

     に赤地の上に金彩を施したものが多く、花弁や花芯にも、金線を施す豪華絢爛な作品が

      特徴となっています。

  ⅳ) 作品としては、「極彩色更紗小紋六角水指」(高17 X 径15cm)(1960年、石川県美術館)、

     「極彩色小紋耳付花生」(高63 X 径29cm)(1963年)、「極彩色割富士山文花生」

     (高25.7 X 径25cm)(1964年)、「金襴手市松更紗紋大皿」 (高 10 X 径49.5)(1966年)、

     「色絵鉄線文鉦鉢(どらばち)」(高11.1 X 径26cm)(1970年)、「錦手小紋瓢形八角花生」

     (高29 X 径18cm)(1977年)、「金銀襴手花小紋に菊文香呂」(高15.5 X 径15cm)

     (1980年、唐招提寺蔵)などの作品があります。 

2) 四代上出喜山、本名 貞吉: 1922年(大正11)~2007年(平成19)

 ① 経歴

  ⅰ) 石川県加賀市栄谷町に三代喜山の次男として生まれます。

      1937年 尋常高等小学校を卒業後、父の傍らで陶芸の修行に入ります。

      1957年 加賀名匠親子展に「極彩色小紋ベリーセット」を出品します。

      1973年 四代喜山を襲名します。(三代目は、前年に没します。)

       同年 第二十回日本伝統工芸展で、「金襴手線割更紗小紋大皿」が入選し、宮内庁

       お買い上げに成ります。

      1974年 「宮内庁皇室御用窯」の指定を受け、海外の賓客への贈答用の作品を製作します。

       この頃から、彼の作る作品のほとんどは宮内庁に納入され、各国の国王や高官らに

       贈られる様になります。作品は「金襴手小紋」が多いです。

      1976年 大阪大丸で開催された、「加賀名匠展」で「金襴手瓢形更紗小紋花生」を出品します。

 ② 四代喜山の陶芸

    父の創案した「小紋様式」を受け継ぎ、それを更に精巧多彩な変化ある作品に発展させます。

    又、九谷焼では分業がなされ、一般には上絵を描くだけの人も多いのですが、彼は轆轤挽きの

     名手でもあります。上絵物なら何でも手掛ける事が出来る腕前だそうです。

     「職人は腕、この作品を見てくれ」と、唯このことのみを申し上げたいと、語っています。

  ⅰ) 四代目喜山の作品

     「極彩色更紗小紋耳付水指」(高18.5 X 径18.5cm)(1980年)、「金襴手菊花文大蓋物」

     (高20 X 径38cm)(1980年)、「極彩色桜絵に小紋飾皿」(高8 X 径44cm)(1980年)、

     「極彩色金襴手小紋陶筥(とうばこ) 」(高11.5 X 横20.5cm)(1980年)、

     「極彩色白金金襴手変わり更紗小紋飾壺」(高58 X 径26cm)(1982年)などの作品があります

次回(酒井田柿右衛門)に続きます。

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現代陶芸129(三代上出喜山1)

2012-06-02 21:38:36 | 現代陶芸と工芸家達

明治~昭和初期の九谷焼は、金沢市、能美郡、江沼郡と各地によって特徴を持っていました。

金沢九谷は、精緻繊美で技巧的な絵付けに優れていました。

能美九谷は、赤絵の作品が多く制作されていました。

江沼九谷は、古九谷や、吉田屋窯、永楽窯など九谷焼の主流の窯が興廃を重ねた歴史があり、

良品な古九谷写しや、八郎手(飯田八郎右衛門、細密な赤絵、金襴手を創設)の精巧な作品を作って

いました。喜山は伝統的な江沼九谷を叩き込まれ、京都の洗練された焼き物(京焼)の感覚を取り入れ

独自の九谷焼を作り出します。

1) 三代上出喜山(かみで きざん): 1898年(明治31)~1972年(昭和47)

 ① 経歴

  ) 石川県江沼郡勅使村(現、加賀市栄谷町)に上出石太郎の次男として生まれます。本名:喜好

      上出家は代々農家であったが1841年(天保12)に喜三郎が製陶業を始めます。

      父石太郎は二代目となります。

      十歳の頃より、叔父の三次郎に九谷焼の技法を学ぶ様になります。

     1916年 京都清水の道八窯に入り、陶芸の修行に入ります。

     1917年 帰郷し父の仕事を手伝いながら、九谷の名工安達陶仙とその助手の永田栄二氏に

      図案と製陶の指導を受けます。

     1919年 寺井野町の高盛昌窯元で、絵付職人として働きます。

     1931年 陶芸家として独立し、号を瑞山と改め、自家営業を始めます。

      富山の売薬商人を通じて、四国に販路を開きます。しかし、戦争が勃発し1942年に、営業を中止

      します。(本格的な活動は戦後になってからです。)

     1945年 美陶園を設立し、三代喜山と名乗ります。

     1948年 フランス式の角窯を築き、初窯作品で「喜山作陶展」を愛媛県西条市公民館で

      開催します。

     1950年 香川県美術館で、「喜山作陶展」を開催し、以後毎年開催します。

     1959年 「更紗小紋飾皿」が外務省のお買い上げとなります。以後展示会に出品した作品は、

      ほとんどが宮内庁や外務省のお買い上げとなり、諸外国の国賓に贈られています。

     1960年 第七回日本伝統工芸展で、「更紗文様平鉢」が入選を果たし、第十回同展で、

     「小紋鉢揃」と「市松紋飾皿」が、最優秀賞を受賞し、一躍注目を集める様になります。

     翌年には日本工芸会正会員に推挙されています。

 ② 三代喜山の陶芸

   ) 永年「自分は職人である」と言い、展覧会に出品する事は無かったそうですが、文化財保護

      委員の小山富士夫氏らの薦めにより、日本伝統工芸展に出品する様になります。

   ) 小紋の絵付け: 喜山の九谷焼の特徴は、精緻で華麗な小紋を絵付けした作品が多い事です。

      その理由は、終戦後の再出発に当たり、九谷焼の海外輸出を図ります。

      「海外では手の込んだ物が上等な作品と見る傾向がある」と考え、小紋を中心とした絵付けの

      九谷焼を目指したといわれています。

   ) 喜山の小紋: 工芸品に小紋の装飾を使用する事は、古くから行われ、九谷焼にも存在して

      いました。しかし彼の小紋は従来の小紋と異なり、金襴手の技法を基礎に、染織品の文様を

      参考にして、新しい更紗紋などを考案し、確かな製陶技術の作品になっています。

   ) 更紗小紋: 更紗(さらさ)とは木綿地や絹地に草花、樹木、鳥獣虫魚、幾何学文様などを

      捺染した布を言います。特に、室町時代にシャム(現、タイ国)より輸入された物は、古渡更紗と

      称され珍重されていました。

      喜山の更紗は、上記古渡更紗や様々な染織品の模様を参考にしています。

     ・ 特徴は、作品の形や表面積の違いによって、小紋の単位に大小の差を設け、それを四方

       八方に連続させて、器全体を覆い尽くしている事です。

       文様を段々に拡大、縮小したりして、視覚的に変化をもたらしています。

       又、文様(小紋)も花びらや木の葉の様な形が多く、時には小紋と幾何学文様を組み合わせ

       たりしています。これらは、従来の九谷焼には見られませんでした。

 ③ 三代喜山の作品

以下次回に続きます。  

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現代陶芸128(小野珀子2、小野次郎)

2012-06-01 21:31:07 | 現代陶芸と工芸家達

③ 小野氏の作品

  珀子氏は繊細な模様、鮮やかな色彩溢れる作品を数多く作っています。

 ) 文様は、台形や不定形な四角形を隙間無く敷き詰めた物や、適度に間隔を空けた文様、

     丸や楕円の文様を散りばめた幾何学的文様(輪郭をボヤカシタ物など)や、紫陽花、葡萄等の

     写実的な植物文様、更には鳥等の文様があります。

  ) 色彩に付いても、透明系の釉、赤(茜)釉系、黄釉系、青釉系の色釉が施されています。

  ) 透明系の作品: 「釉裏金彩花入」(高 34 X 径 25cm)(1979年)

     黄系の作品: 「釉裏金彩黄釉壺」(高 31 X 径 28cm)(1981年)

               「釉裏金彩黄釉水指」(高 14 X 径 20cm)(1982年)

     青系の作品: 「釉裏金彩青釉鳥文壺」(高 25 X 径 31cm)(1976年)

              「釉裏金彩青釉紫陽花水指」(高 16  X 径 22cm)(1980年)

              「釉裏金彩青釉壺」(高 29 X 径 37cm)(1982年)

              「釉裏金彩葡萄文壺」(高 28 X 径 29cm)(1982年)

     赤(茜)系の作品: 「釉裏金彩紅釉壺・茜の森」(高 34 X 径 37cm)(1981年)

      ) その他、金襴手の作品も多く作っています。組み物の食器類などです。

       「金襴手草花文小鉢」(高 8 X 径 13cm)(1981年)などの作品です。 

2) 小野 次郎(おの じろう): 1953年(昭和28)~2010年(平成22)

 ① 経歴

   ) 陶芸家小野珀子の次男として生まれます。

      (尚、長男太郎氏は、陶芸の世界には入らなかった様です。)

      21歳の時 有田の窯業試験所で轆轤の修行に入ります。その後祖父が設立した琥山窯に

       入り、1977年頃より、本格的に作陶を始めます。

       母や叔父(祥瓷=珀子の実弟、琥山窯を経営)の作品や制作方法に触れ、刺激を受けます。

      1978年 日本工芸会西部工芸展に入選し、以後連続入選しています。

      1979年 第26回日本伝統工芸展で、初入選を果たします。以後連続入選。

      1982年 日本工芸会正会員になります。

       以後、日本陶芸展、伝統工芸展などで入賞、入選を数多く果たしています。

      2000~2001年 「大英博物館佐賀県陶芸展」(大英博物館ジャパンギャラリー:佐賀県、

       佐賀県陶芸協会、佐賀新聞社主催)の出品の「釉裏金彩花入」が2001年 大英博物館に

       収蔵されます。

      2002年 琥山窯を退社し、琥珀陶芸舎を開窯します。

       同年 東京・大阪・神戸・新潟・福岡などで個展開催しています。

      2010年 佐賀「県陶芸協会展」に次郎氏の遺作、「釉裏金彩壷」が喪章とともに展示されます。

        大小の円の金箔が、青釉の下から神秘的に浮かび上る作品になっています。

 ② 小野次郎氏の陶芸

    現在、「釉裏金彩」の技法は、公になっていますが、手間が掛かり、大量生産できない為、

    この技法に取り組む人は少ない様です。漆で金箔を貼る行為が一番大変との事です。

    1996年 母珀子氏死亡により、金襴手、釉裏金彩の技術を受け継ぐべきと決心します。

    それまで、鉄彩を中心にした制作を展開していました。直接母珀子氏より釉裏金彩の手ほどきを

    受けていませんが、長年珀子氏の制作過程を目の当たりにした事が、貴重な財産と成っています。

  ・ 次郎氏はプラチナ(白金)箔を使った銀彩も用いて、金彩とは違った味わいを表現しています。

    「釉裏白金彩壺」等があります。

次回(上出喜山)に続きます。

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