神奈川県厚木市にあるアミューあつぎで、ミキ・デザキ監督・脚本・撮影・編集・ナレーションの2018年作品『主戦場』を観ました。従軍慰安婦に国や軍が関与していたか、南京大虐殺は実際にあったのか、様々な人にインタビューしながら、ネトウヨ及び日本会議の裏のボスである人物へのインタビューに成功するという映画です。
ここではパンフレットに掲載されていた、プロデューサーのハタ・モモコさんによる「解決へのロードマップ」と題された文章を転載させていただきます。
「実は、自分がドキュメンタリー映画『主戦場』のプロデューサーであると知ったのは、編集がほぼ終わり、これから細かい修正を加えていくという段階になってからだった。こんな感じに作ったよ、と初めて映画を観せられた時だ。自分の名前がプロデューサーとして挙がっているではないか!「えっ、本当にいいの?」という気持だった。
私は、ピンチヒッターという形で、当初から携わっていたが多忙のためにプロジェクトから抜けた日本人スタッフとの入れ替わりで入った。米日韓で製作された映画だが、私が担当したのはあくまで日本語を必要とする部分だけだ。インタビューの依頼、監督が作成した質問などの翻訳作業などの一方、インタビュアーとして多くの出演者に話を聞いた。その中には個人的には気の進まないインタビューもあった。この映画の両論併記という形には懐疑的であったし、否定論者へ発言の場を与えてしまうということに抵抗を感じないわけではなかった。
しかし、実際にインタビューで話を聞いてみると、この問題が提起している構図は、誰が間違っていて誰が正しいと明確にわかるというような単純なものではなかった。慰安婦問題は、しばしば『日本 vs.韓国』という一面的な軸で語られがちだが、日本人の中にもナショナリスト、慰安婦のサポーター、政治的ポジションを取らない専門家、どちらのサイドにも転びうる浮動層等と多様な立場が混在している。韓国においてもしかり。しかし、いざ論じるとなると、それぞれの主張と疑問と誤解は、各々の国のナショナリストの枠に押し込まれ、彼ら以外の人々の主張は利用する者の都合の良いように、あるいは相手方の都合の悪いように利用される。
さらに、一人ひとりの中にも様々な立場が混在する場合がある。それを一番強く感じたのは、慰安婦の女性たちに対して差別的な発言をする人の中に、別種の差別の被害者であったのではないかと予想される人がいた時だ。慰安婦問題には、民族差別、女性差別、植民地問題、家父長制、慰安婦の女性たちの国(日本も含む)の社会の問題等、どれ一つを取っても決して軽くは無い課題が織り合わさっている。ある問題の被害者であることは、他の問題の加害者であることと排他的ではないし、同時に複数の問題の被害者/加害者になることもある。慰安婦問題の根本的な解決とは、それらの問題を一つ一つ紐解いていき、その中で解決のために最適解を見つけることなのだと思う。
しかしそれは、各問題の加害者と被害者の両方に触れることになり、誰にとっても多かれ少なかれ居心地の悪いものであるがゆえにあちこちから反発が生まれ、それに便乗して過激な論調やストーリーの誇張、あるいは逆に矮小化が後を絶たないのだと思う。
(明日へ続きます……)
ここではパンフレットに掲載されていた、プロデューサーのハタ・モモコさんによる「解決へのロードマップ」と題された文章を転載させていただきます。
「実は、自分がドキュメンタリー映画『主戦場』のプロデューサーであると知ったのは、編集がほぼ終わり、これから細かい修正を加えていくという段階になってからだった。こんな感じに作ったよ、と初めて映画を観せられた時だ。自分の名前がプロデューサーとして挙がっているではないか!「えっ、本当にいいの?」という気持だった。
私は、ピンチヒッターという形で、当初から携わっていたが多忙のためにプロジェクトから抜けた日本人スタッフとの入れ替わりで入った。米日韓で製作された映画だが、私が担当したのはあくまで日本語を必要とする部分だけだ。インタビューの依頼、監督が作成した質問などの翻訳作業などの一方、インタビュアーとして多くの出演者に話を聞いた。その中には個人的には気の進まないインタビューもあった。この映画の両論併記という形には懐疑的であったし、否定論者へ発言の場を与えてしまうということに抵抗を感じないわけではなかった。
しかし、実際にインタビューで話を聞いてみると、この問題が提起している構図は、誰が間違っていて誰が正しいと明確にわかるというような単純なものではなかった。慰安婦問題は、しばしば『日本 vs.韓国』という一面的な軸で語られがちだが、日本人の中にもナショナリスト、慰安婦のサポーター、政治的ポジションを取らない専門家、どちらのサイドにも転びうる浮動層等と多様な立場が混在している。韓国においてもしかり。しかし、いざ論じるとなると、それぞれの主張と疑問と誤解は、各々の国のナショナリストの枠に押し込まれ、彼ら以外の人々の主張は利用する者の都合の良いように、あるいは相手方の都合の悪いように利用される。
さらに、一人ひとりの中にも様々な立場が混在する場合がある。それを一番強く感じたのは、慰安婦の女性たちに対して差別的な発言をする人の中に、別種の差別の被害者であったのではないかと予想される人がいた時だ。慰安婦問題には、民族差別、女性差別、植民地問題、家父長制、慰安婦の女性たちの国(日本も含む)の社会の問題等、どれ一つを取っても決して軽くは無い課題が織り合わさっている。ある問題の被害者であることは、他の問題の加害者であることと排他的ではないし、同時に複数の問題の被害者/加害者になることもある。慰安婦問題の根本的な解決とは、それらの問題を一つ一つ紐解いていき、その中で解決のために最適解を見つけることなのだと思う。
しかしそれは、各問題の加害者と被害者の両方に触れることになり、誰にとっても多かれ少なかれ居心地の悪いものであるがゆえにあちこちから反発が生まれ、それに便乗して過激な論調やストーリーの誇張、あるいは逆に矮小化が後を絶たないのだと思う。
(明日へ続きます……)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます