gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

高橋洋『映画の魔』その1

2016-11-06 10:17:00 | ノンジャンル
 高橋洋くんの’04年作品『映画の魔』を読みました。
 いくつかの箇所を引用させてもらうと、
・「恐怖と驚愕で正気を失うとき カオスが至高の掟へと高められるまさにそのとき 犯罪の支配がおとずれる」(『怪人マブゼ博士』(1932年)の渋谷哲也訳をさらに高橋が超訳)
・「主人公バウム教授がマブゼの書き遺のこした狂気のメモを読み進めるうちにふとささやかれた声だった。目の前にはマブゼの亡霊が座っていた。バウムはマブゼに憑依された。だが、この憑依はバウム一人ではなく、スクリーンを見つめる観客全員に向けて企てられたものだった」
・「先日アテネ・フランセで黒沢清監督と対談した際、『スリー・メン&ベイビー』に映り込んだ謎の少年の姿をビデオで紹介したが、この時ばかりは真の恐怖が会場を駆け抜けた。(中略)山岸涼子の『汐の声』はいわゆる実話恐怖漫画の白眉であろうが、唯一の欠点はビデオに映り込んだ霊体の顔から正体が分かってしまうことだろう」
・「私も恐怖映画の今後について真剣に考えねばと思う。(中略)例えば小中氏の『ほんとにあった怖い話』は、女の髪の毛がいかにゾッとする効果をもたらすかを思い起こさせてくれる」
・「澁澤龍彦の『ショックについて』(『スクリーンの夢魔』所収)を初めて読んだとき、私はいても立ってもいられない興奮を覚えた。この60年代に書かれた文章は映像が人を殺す可能性について言及していた。
・「澁澤が語っているのは、『聞くに堪えない不快な音』『見るに堪えない残酷かつ醜悪なイメージ』の『目まぐるしい交代』による『ショック死』であって、ここではもっぱら肉体への生理的テクニカルな刺激が死をもたらす要因とされていた」
・「昨今は一口にホラー映画と呼ばれてしまうが、私が子供の頃、ホラーなる言葉はなく、怪奇映画と恐怖映画という二つの言葉だけがあった。『吸血鬼ドラキュラ』は怪奇映画、『悪魔のいけにえ』は恐怖映画。澁澤も『スクリーンの夢魔』でこの二つの名称を適宜使い分けている」
・「蝋人形が炎上する大趣向がクライマックスの『生血を吸う女』はいかにも怪奇映画だと思うかもしれないが、これはむしろ残酷劇(グラン・ギニョル)の系譜に位置する恐怖映画である」
・「恐怖とはこのような生々しい体験であるという認識を、私(たち)は幽霊という『ショック』を介して世間に伝えようとした」
・「たとえば最近では、『マイノリティ・リポート』のこんな場面が怖い。マックス・フォン・シドーが部下であるトム・クルーズの妻に『ネクタイを結んでくれ』と頼む。彼女はシドーの背後に回って、手を伸ばし、ネクタイを結び始める。二人は親娘同然の間柄で、シドーはすっかりくつろいで様子で、うかつにも殺人犯人しか知り得ないことをしゃべり、気づかれてしまう……。犯罪の露見の仕方としては実によくある段取りなのだが、ここで図らずもゾクッとしたのは、肝心の台詞をしゃべる寸前、キャメラがスーッとシドーに近づき、ちょうどシドーの肩の上にフレームから首が切れた、女の両腕だけが伸びているように見せたからなのだ。(中略)シドーもクルーズの妻も犯罪の露見に愕然と見つめ合うが、そこに幽霊が介在したことは気づいていない。そこが怖いのであり、これから殺されるであろう人々の死の映像(予知のヴィジョン)に満ちたこの映画は、一度もあからさまに幽霊を見せないまま、しかも幽霊を幾度も見せているのである」
・「きわめて月並みな結論に思えるかも知れないが、しかし立っている死体など見たことがある人はいないのだ」
・「空間に漂う気配や音の使い方で勝負する。全篇をこれで見せきったのがR・ワイズの『たたり』。もちろん、これがすべてではないが、おおむねこれらの組合せ・バリエーションによって幽霊映画は成立している」
・「念写ビデオの中で鏡の位置が一瞬時空がゆがんだように移動する場面があるが、あれは彼女(由良宣子)の実体験である」
・「悔しいが、探求の成果はひと足早く小中・鶴田コンビが『ほんとにあった怖い話・第二夜』で発揮してしまった」
・「その後私は『女優霊』『リング』で自分なりに方法論を実践するわけだが、残念ながら『第二夜』で達成された迫り来る幽霊の怖さを超えたとは思っていない」
・「私は小中・鶴田コンビを超えようと焦るあまり、“幽霊が顔をさらしてなおかつ怖い”とおいうフェリーニの『悪魔の首飾り』レベルの超高度な技を要求してしまった」
・「メロドラマとは、この度し難く俗悪きわまりない人間の情念なるものを主役にすえた見世物であった。当然ながらそこには、恐怖という人間の最も根源的な叫びを扱うホラーも含まれる。(明日へ続きます……)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿