常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

生きがい

2022年09月09日 | 登山
最近、ブログのカレンダーを見て、少し驚いた。このところ、投稿をしない日が随分と増えている。いざ投稿しようとしてパソコンに向かうのだが、つい意欲がなくなって明日にしようと先延ばしする癖がついている。前日のブログ迄4日も投稿していない。多少はこのブログの投稿を待ってくれている人もいるので、申し訳ない気持ちになる。山の記事があまりないことも原因のひとつだが、いつも天候のことばかりでは書くことの内容もなくなってくる。

神谷美恵子の名著『生きがいについて』を読んでいるので、自分の生きがいについて少し書いてみたい。神谷も書いているが、年老いてから、人間は生きがいを失っていく。自分にはこれから何の生きるよろこび、生きていくどんな値打ちがあるだろうという境地に陥っていく。福祉環境が充実している北欧でも、老人の自殺は多いらしい。老人とは、生きがいをなくしていく存在なのだ。ついこの春まで、自分は山登りを生きがいにしてきた。

同じ年代と比べても、そこそこ脚力があり、大朝日の縦走や穂高の急登もこなすことに満足し、幸福感に浸っていた。ところがこの春、アクシデントの滑落で、この幸福感は根底から否定された。鬱々とした日が過ぎていくなか、昔の山仲間と話す機会があった。この人も、山登りに夢中で、登ることの喜びに浸っていた。ある日、突然、股関節に痛みが走り、山から離れた。近くに畑を借りて、野菜作りに楽しみをも見出していた。先日の話では、その後、大腸がんを患い闘病生活を続けているということであった。

その6年間、苦しい抗がん剤治療のかたわら、取り組んだのは近所の公園の草取りである。梅雨になって伸びてくる雑草をたった一人で採り、空き地に花を植えて咲かせる。咲いた花を、近所の人々に届けることに生きがいを見出した。そんな姿を見守ってくれる家族、主治医。先のない人間の生きがいは、人から感謝される行動を続けることで生まれる。

私には、ひ孫が生まれた。2ヶ月を過ぎて、親を見わけ、あやしに無邪気な笑いを浮かべる。そんな動画が届く。神谷恵美子の子ども喜びについての言葉を引く。

「子供にとっては「あそび」こそ全人格的な活動であり、真の活動、すなわち天職であるから、そこで味わうよろこびこそ子供の最大の生きがい感であろう」

ひ孫のこんな動画を見ながら、日々、足の強化に努める。こんな自分にも、明日の希望がある。
コメント
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