彼岸に入って、今日20℃、びっくりするような陽気である。オオイヌノフグリが咲き、ハコベの若草が伸びている。白く小さな花は、ナズナ、別の名はペンペン草である。春の七草にもなっていて、若い芽を食べるが、早春の菜として、野菜のない季節の貴重なビタミン源であった。花が終わって、実になるとハート型の種をつける。三味線の撥に似ていることから、三味線草、ペンペン草という異名がある。昔、草ぶきの屋根には、この草が生えて、家が古く傷んだことの代名詞のように使われる。これほど陽気がうよくなると、家にじっとしているのは、何かもったいない気がする。
業務スーパーに福メールという特売がある。この店のメルマガに登録しておくと、朝、本日のお買い得が3品ほど、3割~5割ほどの値段をつけて送信してくれる。昨日の特売は讃岐うどん(冷凍)、200g5食が98円であった。普段もこのうどんをよく買う。冷凍とは思えぬもちもち感でかき揚げを入れて、熱々を食べると、寒い冬のファーストフードですごくおいしい。通常は147円なので、とても得をしたような気がする。
森浩一先生の『食の体験文化史』を読むと、うどん好きの森先生が、香川の讃岐うどん工場で、作り立てのさぬきうどんを食した話が出てくる。機械でこねたうどん玉が、その工場の片隅に籠にいれてあり、大きな鍋に湯が沸騰している。女性社員がするのを見習って、うどん玉を振りざるに入れてゆであげ、おいてある丼に入れる。大鍋で作り置きしてある出汁汁を柄杓で丼へ入れ、そこへ机の上に並べてある天ぷらの好みのものを取って入れる。新鮮な体験で、おいしかったと述懐している。うどんは、とても簡単で便利な食べ物である。
今年になって初めての千歳山。10時過ぎに家を出て、稲荷神社から登る。この時間、登っている人は、自分を含めてほとんどが高齢者。ここが、脚を鍛えて、身体の衰えを防ごうという人たちのようである。100mほど歩いては、休みながらも、頂上を目指すお年寄りの姿には頭が下がる。久しぶりの好天で、木の間から見える月山が美しい。山は葉が落ちているため、見通しがいいが、いつもの山の雰囲気ではない。新しい切り株は、番号をふったプレートが貼られ、松枯れがさらに進んでいる証である。
阿古耶姫伝説は、伐られる運命にある松の精と契りを結んだ悲恋の話だが、これだけ松が死んでいく姿を見て、頂上に眠る阿古耶姫の霊は、さらに悲しみを深くしているに違いない。かつて全山が松に被われ、古歌に
みちのくの阿古耶の松の木がくれて
いづべき月の出でやらぬかは(夫木和歌抄)
と歌われ、当時の山の姿は想像するのみであるが、山形の市街から見える三角錐の山容は今なお市民に愛されている。
散歩の楽しみは、春になって初めて咲く花を見つけることだ。悠創の丘に、毎年咲くイチゲの花を見に行った。花の蕾が頭をもたげ、2、3輪咲きかけているのを見つけてうれしかった。丘を少し下って、芸工大の裏には、マンサクが今年の豊作を予兆するように満開であった。その先のお宅の庭に、土から花茎を出して咲く可憐なクロッカス。カメラに収めると、その美しい色がそのまま表現されていた。
クロッカスはヨーロッパで、春を告げる花として愛でられている。その可憐さのゆえに、神話や伝説として多く伝えられている。このブログにその一端は説明済みであるが、美青年クロッカスと美少女スミラックスの悲恋の神話がある。二人は恋をし、結婚を夢見るが、神々が二人の結婚を許さなかったため、クロッカスは自殺し、スミラックスもその後を追って死んでしまう。二人の詩を悼んだ女神フローラは、少年をクロッカスに、少女をスミラックス(アサガオ)の花に姿を変えて生かした。
地面に目を向けていたが、あたりに花の香りが漂っていた。視線をあげると、見事な紅梅が花を開いて、かぐわしい香りをふりまいていた。芭蕉に「香を探る梅に蔵見る軒端哉」という句があるが、花を観賞すると同時に、香もまた人々に待たれていたものであった。香は白梅、と言われ、勾配の香りはやや劣るものとされているが、どうして紅梅の香も捨てたものではない。再び視線を落とすと、群れて咲くフクジュソウ。花の色は、里山の腐葉土から栄養を得て、鮮明である。
寒さに馴れてきた体は、不思議なもので10℃を超えると暖かく感じる。まして、陽光のなか車に乗ると、暑すぎてエアコンを使いたくなる衝動にかられる。人に会うと、「日中は暖かくなりましたね」と言うのが挨拶がわりになっている。ころは3月、夜は9月、という言葉があるが、気持ちのよい日中は3月、夜は9月という意味である。春の日は、日に日に長くなっていく。「春の日と親類の金持ちはくれそうでくれない」は冗談のような話だだが、これが秋になると「秋の日と娘はくれないようでくれる」というそうだ。
齢を重ねると、人との交流が深いものになっていく。いつもは、エレベータの前で、朝夕の挨拶ぐらいだったものが、立ち止まって、健康のこと、趣味のことなど言葉を交わす人が多くなった。若いころは、挨拶すら面倒で、避けて通るような人見知りの性格であったが、人間も随分変わるものと感じるこのごろだ。
フランスの哲学者ルソーにこんな言葉がある。「もっとも長生きしたした人とは、もっとも多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を体験した人だ」(エミール)テレビで、3.11の回想番組を見て、涙が出た。町役場に務めた娘が、役場の職員になるとき、「公務員は全体の奉仕者だ。そのためにには、時には命を捨てることも必要だ。その覚悟はあるか」と娘の父は娘に聞いた。「おやじ、分かっているよ。もちろんだよ」と娘は答えた。その役場は3.11の津波に飲まれ、娘も命を失った。娘には重すぎた言葉ではなかったかと、その父は今も庁舎に足を向ける。この春、津波のシンボルであった津波を被った役場の庁舎は、壊されてなくなる。