友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

落語を聴きに行きました

2009年10月01日 21時18分33秒 | Weblog
 誘われて、春風亭小朝と林家正蔵の落語を聴きに行った。落語を目の前で聞くのは何年ぶりだろう。私の町でも80人ほど入れる私設のホールがあって、音楽会や落語会がよく行なわれた。あるいは工芸や絵画の作品展が行なわれ、その千秋楽にはお酒と手料理のパーティーも行なわれたりして、文化活動の発信基地になっていた。しかし、バブルの崩壊はここにもやってきて、今は学習塾に変わっている。あの時、聞いた古今亭右朝の人情話には泣かされた。

 春風亭小朝の出し物は、芸事の師匠の女が年下の男に恋焦がれ、凄まじい最期を遂げる怪談話だった。恋の面白いところと、気持ちがずれていくことの怖さを巧みな話術で聞かせてくれた。古典落語をよく勉強していると聞いたがその通りだろう。クラシックやジャズのプロデュース公演を自ら企画し、好評を博しているそうだから、活躍の幅も広い。今日の落語ブームを作った中心的な存在というのもうなずける。

 林家正蔵の方は人情話だった。私の感想は、父親である林家三平よりもうまいと思った。三平という師匠はいつもパターンが同じで面白くないという印象だった。亡くなる前は随分いい落語家になったということだったが、その頃は残念ながら聞いていない。昔、子どもの頃にラジオで聞いた落語が懐かしい。フトンの中、ひとりでクスクス笑って聞いた。あれは誰だったのだろう。しわがれた声の主は柳家金語楼(?)だったか。古今亭志ん生とか立川談志とか柳家小さんとか、昔の落語家はうまかったなどと言うと、子どもの時にしか聞いていなくて何がわかるかと突っ込まれそうだ。

 桂枝雀というユニークな落語家のうわさは聞いたことがあるけれど、本人の話を直接聞いたことが無いのが残念だ。残念と言えば、名東文化小劇場はこじんまりとしたところではあるけれど、やはり落語は小さな場所の方がいい。100人せいぜい200人までがベストだと思うけれど、そんな劇場はどこにも無いのだろう。演劇も、出来れば500人までくらいで観ることができれば迫力も違ってくるはずだ。マイクの無かったギリシャや江戸時代の舞台こそが演劇の醍醐味だと思う。どこの自治体もできるだけ大きな施設を造って集客力を上げようとするが、本当はもっと小さな施設が必要なのではないだろうか。

 大勢の人の前に立つような人は十分な鍛錬と準備を怠らないだろう。けれど、不運が襲うこともある。正蔵が話している時に、なにやら客席の前の方で話し声がした。何気なくその方を見てしまったために、正蔵は同じ言葉を繰り返してしまった。繰り返し練習を重ねてきた人でもそういう失敗に落ちることもある。ましてや普通の人ならなおさらである。朝早くからこの日のために充分に準備し、準備が行過ぎて余分なことまでやってしまって、いざ本番となった時には何の役にも立たない悲劇を招くことがある。悔しさもあるが自信を無くすことの方が大きい。そういう人はどうやって自信を取り戻すのだろう。
コメント
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