友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

うまいものが食べたい

2009年10月09日 18時59分46秒 | Weblog
 70歳になる知人は、岡山県の山奥で育ったと言う。戦争で夫を亡くした母親は、子どもたち3人をそれぞれ養子に出した。子どもにとっては無慈悲なことのようだけれど、母親にしてみればそれしか子どもたちが生き延びる手立てはなかったのだろう。戦争はいろんな悲劇を作り出す。私は昭和19年生まれだが、戦争中の真っ只中だったので、友だちの中にはもらわれっ子はかなりいた。

 戦争未亡人となった義姉を弟が嫁にもらうとか、嫁ぎ先が子どもだけを取り上げて実家へ帰すとか、戦争を挟んで青春を送った人たちは思いもよらぬ苦労を強いられた。生まれた子どもたちもまた苦労とか悲劇とかを背負わされた。知人がもらわれた家には子どもがいなかったそうだ。「それなら、大事にされたのでしょう?」と聞くと、「親父は酒飲みで、働きもせずに昼間っから酒びたりだった。自分の食い扶持くらい自分で稼げと言われて、朝から晩まで働かされた」。

 「お母さんはどういう人だったのですか?」と聞いてみる。夫婦といえども同じということはないように思ったからだ。「お袋は親父ほどではなかったけれど、似たようなものだった。学校へ行っている間が一番楽しかった。それでも、お昼になると、みんなは家から持ってきた弁当を食べるけんど、弁当は持たせてくれなかったから、家で食べるからと言って学校を出て、昼時間を近所の神社やお寺で過ごして学校へ戻った」。

 「腹減ったでしょう!?」「いつも腹ペコで、うまいものが食いたい!とずっと思っていたよ。お金を稼ぐことも覚えた。枯れ木を集めて、町へ売りに行った。そのうち、燃料用の枯れ木よりも工芸品の材料になる木の方が値段が良かったから、どんな木が高く買ってもらえるか、山を歩くうちに覚えた。山菜やキノコもお金になったから、学校へ行く前に山へ出かけて一仕事したね」。

 「両親を恨んだ?」。「それはないね。むしろ、たくましく生きる智恵を教えてくれたようなものだし、あの人たちはあの人たちなりに苦労があったんだと思うね。もうふたりともいないんで、会って話を聞くこともできんけど。大変な時代だったからね。山歩きや山菜やコノコ狩りは今も好きでやってる。樹木はもちろんや草木の名前もこの時に覚えたから、結局仕事に役立ってるよ」。

 知人がどうやって岡山の山奥から出てきて、愛知県に住み着いたのか、もっと聞きたいと思ったけれど、彼が話すのに任せた。「人生はいろいろあるってこと。あんまり腹ペコだったから、うまいものが食べたいという卑しさは全然直らんよ。美味しいものを食べて、美味しい酒が飲めればいい。子どもは独立して家も建てたから、もう私が残すものは何もない。カミさんとふたり、毎日酒飲んでうまいものを食べる。これが最高!これ以上のことは何も望まんね」。

 そう言いながら、「いやちょっと違った。気楽にしゃべられる友だちとお酒が飲める。これを忘れたら遺憾かった」と満面の笑顔になった。
コメント
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