9月20日に、『還暦記念のクラス会』を開いた昭和43年卒業生から手紙が届いた。中に写真が3枚とあいさつ文とそれぞれが書いたコメントの一覧表および住所録が入っていた。私が教員となって赴任した高校の生徒たちだが、新米の私は担任ではなく、授業もわずかしか持っていなかったように思う。そんな私にもクラス会への案内をいただき恐縮した。
私は22歳だったが、このクラスには留年した生徒もいたから、恥ずかしいくらい歳の差がなかった。子どもっぽい顔つきの私は結構彼らに可愛がられたのかもしれない。送られてきた写真を見ると、私と変わらないくらい老けた者もいるし、「還暦?」とは思えないほど若々しい者もいる。ひとり一人の顔を眺めていると懐かしさが蘇ってくる。
2年前に私を誘って、信州へ連れて行ってくれた生徒も大阪から来ている。ブラスバンドの顧問を引き受けたことから、そのブラスバンドの生徒がやっているペンションへ行かないかというものだった。ペンションを経営している生徒は他科だから全く教えたことはなかった。彼らが3年生の時はまだ、私は顧問でもなかった。それでも、出かけてみると何だか不思議に話も合い、懐かしい気持ちになった。
コメントの一覧表を見ていたら、「脳卒中で倒れ死ぬかと思った」とか、「病院で栄養指導を受けています」などというものもある。さらにショックなのは「今年1月に亡くなられたとご家族から連絡あり」とある。そうか、みんなそういう歳になってきたのだ。担任だった先生方は、新米の私を暖かく迎えてくださった先輩たちだが、写真で見る限り3人とも元気な様子だ。ヘビースモーカーで、生徒たちが教官室の掃除をする度に、灰皿から吸い終わったタバコを持っていく者がいたと思う。
住所録は不明とある者が6人もいる。東京や千葉県、埼玉県に住んでいる人もいるし、遠くは山形県や山口県という人もいる。22歳だった私が言うのも変だけれど、18歳や19歳の彼らはまさに青春の顔をしていた。いつもギターを弾いていた男生徒はプロの歌手になり、NHK紅白にも出演した。あの頃は色白で少しふっくらしていて大人っぽかった女生徒は毛糸の染物をしていると聞いた。羽振りが良くて、私も一度仕事場を訪ねたことがある女生徒は今どこにいるのか不明だと言う。
昭和42年の4月から翌年の3月までの短い間だったけれど、写真を見ていると高校生だった彼らのことが思い出される。体育大会の名物だった作り物の制作に私も手伝ったし、体育大会当日はトラックを走った。生徒たちと同じくらい楽しんでいたのかもしれない。文化祭で私は古典的な油絵を出品したが、今は大阪に住む生徒が「先生の作品はよく覚えていますよ。凄いなと思いましたから」と言ってくれた。
クラス会が楽しくなるのは厄年が過ぎてからかもしれない。私は今、小学校も中学校もクラス会の役員で、今年は残り少ないがいいのかなと思っていたら、「クラス会の開催は来年だ」と教えてもらった。安心していると、すぐにやってくる。年寄りの時間はとても早いのだ。
私は22歳だったが、このクラスには留年した生徒もいたから、恥ずかしいくらい歳の差がなかった。子どもっぽい顔つきの私は結構彼らに可愛がられたのかもしれない。送られてきた写真を見ると、私と変わらないくらい老けた者もいるし、「還暦?」とは思えないほど若々しい者もいる。ひとり一人の顔を眺めていると懐かしさが蘇ってくる。
2年前に私を誘って、信州へ連れて行ってくれた生徒も大阪から来ている。ブラスバンドの顧問を引き受けたことから、そのブラスバンドの生徒がやっているペンションへ行かないかというものだった。ペンションを経営している生徒は他科だから全く教えたことはなかった。彼らが3年生の時はまだ、私は顧問でもなかった。それでも、出かけてみると何だか不思議に話も合い、懐かしい気持ちになった。
コメントの一覧表を見ていたら、「脳卒中で倒れ死ぬかと思った」とか、「病院で栄養指導を受けています」などというものもある。さらにショックなのは「今年1月に亡くなられたとご家族から連絡あり」とある。そうか、みんなそういう歳になってきたのだ。担任だった先生方は、新米の私を暖かく迎えてくださった先輩たちだが、写真で見る限り3人とも元気な様子だ。ヘビースモーカーで、生徒たちが教官室の掃除をする度に、灰皿から吸い終わったタバコを持っていく者がいたと思う。
住所録は不明とある者が6人もいる。東京や千葉県、埼玉県に住んでいる人もいるし、遠くは山形県や山口県という人もいる。22歳だった私が言うのも変だけれど、18歳や19歳の彼らはまさに青春の顔をしていた。いつもギターを弾いていた男生徒はプロの歌手になり、NHK紅白にも出演した。あの頃は色白で少しふっくらしていて大人っぽかった女生徒は毛糸の染物をしていると聞いた。羽振りが良くて、私も一度仕事場を訪ねたことがある女生徒は今どこにいるのか不明だと言う。
昭和42年の4月から翌年の3月までの短い間だったけれど、写真を見ていると高校生だった彼らのことが思い出される。体育大会の名物だった作り物の制作に私も手伝ったし、体育大会当日はトラックを走った。生徒たちと同じくらい楽しんでいたのかもしれない。文化祭で私は古典的な油絵を出品したが、今は大阪に住む生徒が「先生の作品はよく覚えていますよ。凄いなと思いましたから」と言ってくれた。
クラス会が楽しくなるのは厄年が過ぎてからかもしれない。私は今、小学校も中学校もクラス会の役員で、今年は残り少ないがいいのかなと思っていたら、「クラス会の開催は来年だ」と教えてもらった。安心していると、すぐにやってくる。年寄りの時間はとても早いのだ。