友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

オイディプス王のこと

2009年10月23日 21時38分56秒 | Weblog
 中学・高校からの友だちがブログで、連城三紀彦氏の『青き犠牲』という小説の読後感を書いていた。その中で、「女は喘ぎながらも体を離すまで、優しい微笑を顔に浸ませ続けた」という文章を引用し、「近親相姦をしている場面だと想像を働かせてしまう。私はそんなシーンを想像するだけで、反吐が出てきそうになってくる」と書いていた。女の子に誰かまわず声をかけていた男だったから、恋多き男と誤解していた。しかし彼は女性に優しいだけで、女性と親しくすることで充分に満足する男であったのだ。

 いや、そんな彼が先日のブログでは、連れの若い女性をしつこく口説いている男の様子を描写し、賢そうな女性が「一度だけよ」と受け入れたことにビックリしたことや、昔、清楚な女の子が遊び人の男に口説かれ、あっけなくOKをしてしまうことに驚きと憤りを覚えたことなどを綴っていた。しかも最後に、「『俺のこと好きだったら、いいだろう』と言った若者の気持ちが何故か羨ましく感じるようになった」と書いている。石のような堅物の男もようやく人の気持ちがわかるようになってきたのかと思った。

 私は連城三紀彦氏の『青き犠牲』は読んだことはないし、興味も抱かなかったけれど、連城三紀彦氏は興味を持った作家の一人で、『恋文』という作品が我が家にもある。男と女の気持ちの描写がうまい作家だと記憶している。私が「おやっ」と思ったのは、連城三紀彦氏の作品のことよりも友だちが「反吐が出そうだ」という文章のことだ。もちろん、彼の潔癖性はよくわかった。以前のブログでも、所帯持ちの自分が恋をすることは許されない行為だというようなことを書いていたからだ。

 私は、オイディプス王は母とは知らずに女性を愛し、子どもをつくってしまったのだと思うし、そもそも愛する行為は、血のつながりとか身分とか慣習とかにかかわりないことだと思っている。母と子が、あるいは父と娘が、そしてまた姉弟や兄妹が、肉体的な行為を持つことはありうる。それは日本書紀にもあるし、古代の言い伝えの中にも多数ある。自分とそれ以外の異性がごく稀にしか存在しない世界ではよくある事例に過ぎない。何しろ、初めてあった異性ならば心を引かれて当然なことだと私は思う。

 友だちは「反吐が出る」と言い切るけれど、男と女であれば、どんな形の愛があってもいいはずだ。オイディプスは母とは知らずに女性を真剣に愛したのだと思う。第3者の立場から見るから「反吐が出る」と言えるのだけれど、本当に愛し合っている者に誰が何を言う権利があるというのだろう。だから友だちは本当に人を心から愛したことがあるのだろうかとさえ思った。愛するということは、それに伴うリスクを負うものだ。どうにもならない醜い修羅場を負うこともあるはずだ。

 友だちは上司が紹介してくれた女性と結婚し、1男1女をもうけた。それでいて、初恋の人や13年以上も付き合っているSEXしない女性に、未だに恋をしている。でも、私はそれを彼らしいと思っている。それがいいとか悪いとかのレベルではなく、一人の男が到達した考えとして、そういうこともあると理解している。私は彼のように精神面だけで満足することは到底出来ない。

 シューマンの妻のクララに恋したブラームスは生涯独身をとおしたけれど、それは彼の愛情表現ではあるが、ふたりに肉の交わりがないとは私は思っていない。別に卑下するようなことではないと思うからだ。
コメント
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