友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

妄想の世界

2009年10月03日 21時51分08秒 | Weblog
 大和塾の機関誌『風』の原稿が集まらないので、この秋号は先送りにしようかと考えていたところへ、3ページ分もある原稿が届いた。写真も3枚添付されている。読んでみると分割して載せるのは無理な気がした。文字を小さくして何とか2枚で収めた。そうなるとあとは表紙と裏表紙の原稿が集まれば何とかなりそうだ。24日までに印刷を完了するためには来週には版下まで作っておかないと出来ない。NPO「おたすけ」の井戸掘りも日程が詰まってきているし、ちょっと忙しくなってきた。

 忙しいことはいいことだ。忙しいことと充実とは違うけれど、追い立てられないとなかなか動き出さない私のような怠け者は忙しい方がいい。そうでないと、一日中部屋にいて、本を読んだりなんともならない文章を書いたり、あるいは妄想の世界に浸ってしまう。子どもの頃から勝手な想像が私の悪い癖だった。自分を物語の主人公に置き換えて、ストーリーを勝手にでっち上げていくのだ。たとえば、私に15年も前に知り合った女の人がいて、なんとなくその女の人に惹かれていく。確かに初めのうちは、「おい、今度の土曜日は空いているか。そんなら飲みに行かないか」。そのくらいの会話だった。

 それが何度か会っているうちに、気心が知れてきて、可愛くなってくる。聞けば、離婚して今はひとりだと言う。私は女房もいるし子どももいる。相手は誰に恋しようと自由だが、自分はそうはいかない。家庭を壊してまで恋に生きるほどの歳ではない。困った。まだ世間体を考えている自分が情けなかったけれど、そこからどうしても進まなかった。自分にはピッタリ合うこの女を諦めなくてはならないのだろうか。愛しているのは確かなのに、いや、女房も愛しているのは確かだから、これを解決するのは無理がある。それではどうする。友だちだけれど、普通の友だちではイヤだ。じゃあ恋人なのか。恋人と呼びたいけれど、それでは女房が許さないだろうから、恋人未満で行くしかない。

 そんな妄想が頭を駆け巡る。あれ、これは中学時代からの友だちの話ではないのか。太宰治のように次から次へと女の人を愛し続けることなど出来はしない。そう、私たちは所詮、普通の人間だ。ビックリするようなことなど出来はしないのだ。孫娘が言うように、普通に生きていくしかない。自分では普通に生きているつもりでも、世間から見れば普通でないことはいくらもある。だから普通に生きることが目的ではなく、自分がどう生きていくかということに尽きると思う。

 白州次郎の物語をテレビでやっていた。カミさんは注目して見ていたけれど、なぜだか分らないが私は、こういう人も居たのだというくらいにしか思わなかった。こういう人がいたこと事態に関心が湧いたけれど、共鳴するようなところはなかった。白州よりも7年遅く生まれた太宰治やそうか父も太宰と同じ年に生まれたのかと、そういうことの方が関心を呼んだ。父たちと同じ歳の人はもういないだろう。けれども、姉と同じ歳の人はまだまだ多い。どんな人生を歩いてきたのか、人が生きている意味などについて、聞いてみたいと思う。

 明日は「一期会」で乗鞍へツアーで紅葉を見に行くので、ブログはお休みするかもしれない。
コメント
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