友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「なばなの里」でコスモスを見る

2009年10月06日 23時11分39秒 | Weblog
 誘われて、「なばなの里」へ行ってきた。台風が来る前の雨降りの今日はとても空いていた。雨降りというものの、雨はそんなに強いものではなく、降ったり止んだりだった。運のよいことには見学している時は雨は止んでいて、建物の中にいる時は雨が降るという運の良さだった。これは誘い人の心がけがよい証拠だ。逆の立場だったら大雨だったかもしれないから、感謝あるのみだ。

 「なばなの里」の様子に変わったところはなかったが、一段と落ち着きと風情が増したような気がした。おそらく木々が大きく育ち、草木が程よい光景を作り出しているためなのだろう。雨降りのために訪れる客が少なかったことも幸いだったかもしれない。今は名物になっている「ベコニア館」は余りにも見事に咲き揃っていた。私はベコニアの、あの造花のような華やかさには抵抗がある。花は自分から「見て、キレイでしょう」と主張するものではないと古臭い感覚があるのだ。

 やはり、キリストも言うように、道端の名も無い花ですら見事な美しさが備わっていると思う。造られた花よりもこれらの道端の名も無き花の方がはるかに魅力的だ。美しさというものは、人が判断するものだ。そして人の好みは様々で、十人十色とはよく言ったものだと思う。だからこそ、自分が好きだというものはかけがえのないものなのだ。そんなに値しないとか言うが、それは好きになった人の愛情の深さであって、そこに客観性などはない。

 今日はあくまでも、「なばなの里」が売り出し中のコスモスとダリアの見学が目的であったので、早々にコスモス畑へ行ってみた。何年か前に、誕生日会で福井県に出かけた時、休耕田を利用した広大なコスモス畑を見たことがあったが、その時のコスモスはもっと背が高かった。だからせっかくの広大なコスモスの群生がよく見えなかった。ところがこの」「なばなの里」はよく工夫されていて、花の背は低い。

 どこから見ても一面のコスモス畑が目に入るように設計されていた。春はチューリップ畑となり、冬はイルミネーションで人々を惹きつけ、初夏には紫陽花と花菖蒲のコーナーもあり、1年中お客が来ても満足できるように工夫されているのだ。今日のような雨模様の昼間は、年齢の高い人が多かったけれど、夜や土日ともなれば若いカップルがデートコースに選ぶのも無理はないと思った。

 もちろん、4日の穂高や乗鞍でもそうであったが、ひとりでやってくる人もいないわけではない。不思議だと思うのは、一人でやってくるのは大方が男性だ。女性の一人旅というものに出会ったことはない。女性は孤独が苦手なのだろうか。男性も女性連れの方が圧倒的に多いかが、これは見栄っ張りから来るものなのかもしれない。男性同士、女性同士のグループは結構多いが、やはり女性の方がよく目に映る。

 レストランで食事をしているカップルはほとんどが夫婦だろう。家族連れや女性同士もいる。グループで来ている人たちはもう少し安い広場で、思い思いに注文をしている。こんなところに、来ている人たちのつながりの物語があるようだ。
コメント
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