友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

太宰治にはなれない

2009年12月14日 20時41分16秒 | Weblog
 太宰治はどういう人だったのだろう。私の父と同じ年の生まれなので、なんとなく父の姿から太宰治を想像しようとしてしまう。太宰の写真を見ると、いかにも神経質そうな顔をしている。父は祖母に言わせると「役者にしたいような色白の面長」だったけれど、160センチに満たなかったと思う。太宰は同じ色白でも170センチを越す長身だったから、それだけでも女性にはもてたであろう。いかにも知識がありそうで、それでいながら見せびらかすそぶりはなく、声もきっと優しい響きであったに違いない。

 私は『人間失格』から入ってしまったので、人を斜めで見る孤独な人というイメージが強かったけれど、生涯学習講座で終戦後の5つの短編を中心にした太宰作品の解説を聞いて、太宰が喜劇的な作品を読者に提供しようとしたことがよくわかった。機知に富んだ軽妙な筆運びは実にうまい。そして彼は、家庭とか道徳とか、人々が大切に思うものに、おそらくそれ以上に価値を置いていたのだと思う。その価値あるものに、しかし、現実の自分は重苦しさを感じ逃げ出そうとしている。

 理想あるいは規範を大事にしなくてはならないとわかっているのに、現実は重苦しくて仕方がない。その乖離を小説の種に書いている。書いていけば行くほど、ますます泥沼にはまり込んでいくといった具合である。自殺する1ヶ月前、作家なら得意になってもいい雑誌『世界』に発表された『桜桃』は、「子供より親が大事、と思いたい」で始まり、最後は「子供よりも親が大事」と言い切る形で終わっている。これは小説の技法の面白さではあるが、それだけではないような気がする。

 太宰が山崎富栄さんと自殺した2ヵ月後に発表された『家庭の幸福』は、書き出しが「“官僚が悪い”という言葉は」である。今日の時勢にも通用するような問題を取り上げているように見えるけれど、それは単なる素材でしかない。この作品の最後が「曰く、家庭の幸福は諸悪の本」で結ばれていることからも分るように、『桜桃』と同じ結論を持ち出してきている。しかもその最後の何行か前のところには、「その女は、その夜半に玉川上水に飛び込む。新聞の都下版の片隅に小さく出る」とまで書いている。

 太宰は一見すると計画性のない、その場その場で適当なことをしているように見えるけれど、私は逆に思えてならない。家庭がありながら、子煩悩な父親でありながら、妻を愛し、子どもたちや自分にかかわりのある人々を大切に思っていたにもかかわらず、そうでない自分がいる。いや彼は、普通の人ならその秩序の中で我慢し諦めるのに、愛と欲の生暖かさにおぼれていく、制御できない自分にどこかで区切りをつけなくてはと思っていたのだ。山崎富栄さんに1年も前から「一緒に死のう」と言ってきたのだから、きわめて計画的な人なのだ。

 高校生の頃は、『人間失格』を読んだことで、いわゆる“ぶっていた”に過ぎなかった。この歳になってみると、太宰治にはなれないとよくわかる。
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