体調不良で、おまけに書くことも思い浮かばないし、今日もやめてしまうつもりでいた。このところ、パソコンを開く元気もなくしていたけれど、中学・高校からの友だちのブログを見ていたら、「たった2行でも3行の文でもいいから更新して欲しい。これは嘘も隠しもない正直な私の気持だ」と書いてあった。中学からの同級生が「ボクもやるよ」と言って、ブログを開設したけれど、何時からか全く更新されていない。私はそのブログを自分のお気に入りから削除してしまったが、彼は「私は相も変わらず、日に一度はそのブログにアクセスしている。なぜなら、ブログを閉鎖したと連絡があるまで、必ずブログにアクセスすると自分に誓ったからだ。たぶん、これからも私はその更新されない中学高校時代のブログにアクセスし続けるであろうし、この歳になるとそんな些細な拘りを後生大事にするものらしい」と続けて書いていた。
この友だちのブログを見て、私は自分を冷たい人間だなと思った。確かにそういうところが私には存在する。年賀状の件でもそうだ。たかが1枚の年賀状だ。1年に1度、まだ生きているよと伝えることに抵抗がある方がむしろおかしいだろう。無駄なことはしたくない、そういう意識が私にはあるのだと思う。何が無駄なのか、決めてしまうことも難しいはずなのに、断ち切ってしまおうとする。中学から仲の良い友だちの一言に過剰に反応して、「もう、お前とは一切付き合わない」と言ってしまった。相手のことが好きだから、好きだからこそ許せない、自分勝手な一人相撲だと分っていても、上手にやっていこうとは思えない、考えられない。どうしているか、元気でいるか、気になるのに自分から折れることができない。太宰治と同じで、本当は私のような者はこの世に存在しない方がよいのだろう。そう考えることはあるが、自殺する勇気はない。
私が花を育てたり、人のことをまず考えて行動したり、力のない人や困っている人を見過ごしておけないおせっかい屋なので、人は私を「優しい人」と言うけれど、私自身は感情の激しい自分本位な思考の持ち主である。けれども私は空気を読むことも、人の気持ちを察することもできる冷静さも持っているので、爆発することは滅多にない。つまり逆に、何年に1回くらいはどこかで自制心を失った発言や行動をしてしまう。私はできる限り、自分を抑えて、相手が気持ちよいと思えるようにと努力しているけれど、そこにはやはり自分の物差しという基準にあるから、えっ、どうして、なぜ分らないの、と思ってしまうことがある。残念ながら、人は思いとその受け止めに時々ズレが生まれるようだ。
相手を思って言ったことでも、相手にとっては自分が馬鹿にされたような気になる時だってある。カミさんは孫娘のために心血を注いでいるけれど、逆に孫娘はそれがうっとうしい時だってある。愛情が強ければ、そのズレも大きい。仕方がないことだ。これは人間が誕生して以来そうだと思う。どちらかが我慢する以外にない。我慢できなければ、太宰治ではないが「グッドバイ」するしかない。出来るなら、一足お先に「グッドバイしたいな」と、私は思う。
この友だちのブログを見て、私は自分を冷たい人間だなと思った。確かにそういうところが私には存在する。年賀状の件でもそうだ。たかが1枚の年賀状だ。1年に1度、まだ生きているよと伝えることに抵抗がある方がむしろおかしいだろう。無駄なことはしたくない、そういう意識が私にはあるのだと思う。何が無駄なのか、決めてしまうことも難しいはずなのに、断ち切ってしまおうとする。中学から仲の良い友だちの一言に過剰に反応して、「もう、お前とは一切付き合わない」と言ってしまった。相手のことが好きだから、好きだからこそ許せない、自分勝手な一人相撲だと分っていても、上手にやっていこうとは思えない、考えられない。どうしているか、元気でいるか、気になるのに自分から折れることができない。太宰治と同じで、本当は私のような者はこの世に存在しない方がよいのだろう。そう考えることはあるが、自殺する勇気はない。
私が花を育てたり、人のことをまず考えて行動したり、力のない人や困っている人を見過ごしておけないおせっかい屋なので、人は私を「優しい人」と言うけれど、私自身は感情の激しい自分本位な思考の持ち主である。けれども私は空気を読むことも、人の気持ちを察することもできる冷静さも持っているので、爆発することは滅多にない。つまり逆に、何年に1回くらいはどこかで自制心を失った発言や行動をしてしまう。私はできる限り、自分を抑えて、相手が気持ちよいと思えるようにと努力しているけれど、そこにはやはり自分の物差しという基準にあるから、えっ、どうして、なぜ分らないの、と思ってしまうことがある。残念ながら、人は思いとその受け止めに時々ズレが生まれるようだ。
相手を思って言ったことでも、相手にとっては自分が馬鹿にされたような気になる時だってある。カミさんは孫娘のために心血を注いでいるけれど、逆に孫娘はそれがうっとうしい時だってある。愛情が強ければ、そのズレも大きい。仕方がないことだ。これは人間が誕生して以来そうだと思う。どちらかが我慢する以外にない。我慢できなければ、太宰治ではないが「グッドバイ」するしかない。出来るなら、一足お先に「グッドバイしたいな」と、私は思う。