栃木県や茨城県で河川が氾濫あるいは堤防が決壊し、大きな被害が生まれている。河川を治める者は国を治めると古代中国から言われてきた。山から一気に平地となる国に住む私たちの先祖も治水には並々ならぬ努力を払ってきた。この地方にも大水から城下を守るための工夫がいくつか行われた。城下側の堤防を反対側の堤防よりも高くし、城下でない方へ水が流れるようにしている。大雨の時には堤防を壊して大きな水たまりとなる堰を設けている。
暴れ川と言われる氾濫を繰り返す河川は、川幅を広げたり、堤防を強化したり、蛇行する河川を出来る限りまっすぐに流れるようにしたり、ダムを作ったり、川の隣に新しい川を人口で掘って水量を調整している。土木工学も機械もない時代によくこんなことができたと思うような工事を行っている。江戸時代は戦争のない時代であったから、道路の整備や治水そして産業の育成に力を注ぐことができた。人口は抑制されたが、自給自足、地産地消の時代だった。
各地域には武士のための学校がつくられた。町民や農民にも寺子屋があり、僧侶や武士崩れが教師となり全員ではないが読み書きを学んだ。当時の世界レベルから見れば、これほど豊かで秩序正しい国はなかったようだ。日本に来た宣教師が本国に送った手紙にそう書いている。庶民が学ぶことは読み書きソロバンであったが、武士たちは儒学を学んだ。人としての基本、国の在り方がその中心である。
江戸時代は治安がよかったというのも基礎はこうした教育にある。音楽家も俳優も絵描きも噺家も、花を生ける道、お茶をたてる道、あらゆる文化が花開いた。からくりなる工学も生まれ、微分積分なる数学も独自に生まれた。最近知ったことだが、江戸末期には蕃書調所という部署があり、その天文方は海外情報の収集とともに外国語の通訳を育成していたとう。幕府官僚の養成機関だった昌平坂学問所でも通訳を養成していたから、江戸幕府は先を見越していたことになる。
しかし、同じ体制は長く続かない。恋が長く続かないのと同じなのかも知れない。どうしてなのか、それをズ~と考えている。