友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ミミズの移動

2015年09月29日 18時02分38秒 | Weblog

 風が強すぎた。朝からルーフバルコニーに出て、鉢をひっくり返して古い土から残っている根を取り出し、たい肥や赤玉土を加えて新しい土を作る作業をしたが、風が吹くたびに砂が舞い、目に入ってくる。それでも我慢して続けていると、強風のためなのか身体が冷えてクシャミと鼻水が止まらなくなった。カミさんはゴルフでいないから、昼飯を過ぎても文句を言われることはない。やれるところまで、やってみようと頑張ったが、午後1時過ぎ、とうとう限界だった。

 古い鉢からミミズが飛び出してくることがある。急いでつかまえ、別の鉢に移す。私の都合でこうして勝手に移動させているけれど、本当にこれでミミズは幸せなのかと考えてしまう。たった1匹でいたミミズなら、何匹か一緒の鉢に入れられた方がいいだろう。こんな小さな鉢の中でも2・3ミリの白いミミズを見つけることがある。ミミズに雄雌はないから出会いが性を決め、産卵するわけで、小さな鉢の中でも巡り合いは滅多にないチャンスだろう。

 ミミズを移動させながら、ヨーロッパへ逃れるアフリカや中東の人たちのことを思った。自らの意志あるいは家族で決めたことだろうけれど、幸せになりたいあるいはなれると信じての行動である。文字通り命を懸けての移動だが、途中で亡くなる人も大勢いる。たとえどんな困難が待ち受けているとしても移動し続けなくてはならない。闇でちゃっかりとお金を取る人もいる。危険を承知で、そんな連中に頼ってまでも移動しなければならないのだ。

 人間は誕生して以来、長い目で見れば常に移動してきた。より住みやすい場所を求めて地上を彷徨ってきた。農地を耕すことが生活を安定させ、富を貯えることになった時、支配者は人々の移動を禁止した。ところが工場生産が始まると労働者が必要となり、移動の自由が叫ばれるようになった。職業の自由や結婚の自由など、「自由」を獲得する近代が幕開いた。現在、難民となる「自由」などは存在しないのに、難民とならざるをえない。これは次の時代への過渡期なのか、それともまだ、古い時代にいるのだろうか。

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