友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「家族という病」と「教育という病」は構造が同じ

2015年09月02日 18時59分11秒 | Weblog

 良かれと思ったことが、重荷になっていることがある。子どもたちにヴィオリンを習わせていたけれど、子どもたちは苦痛だった。私もカミさんも楽器を演奏することは出来ない。出来ないからこそ子どもたちには楽器が演奏出来る喜びというか、満足感を持たせてあげたかった。親の子どもへの期待は一種のエゴで、親の満足でしかない。過大な期待を子どもに負わせてはいけないけど、期待されない子どももみじめだ。

 両親が亡くなった時、ホッとした。これで親から自由になれたと思った。兄が祖父の養子になり、家業の材木屋を継いだためか、母は私に「お前だけが頼りだからね」とよく言った。「男はジェントルマンになりなさい」ともよく言ったけれど、私には同様にプレッシャーだった。親の望みに応えなくてはという思いがいつの間にか育っていた。だから、両親の死は私にとっては呪縛からの解放だった。

 下重暁子さんは著書『家族という病』の中で、「一番身近な家族にこうして欲しい、ああして欲しいという期待を持つこともない。期待してもその通りにいくことはないし、衝突して淋しい思いをするばかりだった」と少女時代を回顧している。そして「自分の家族と思うから余計な期待をしてしまう。それがストレスになり甘えになる。家族の間に日常的な微風を吹かせておきたい。べったりで相手がみえなくなり、排他的になるなら、家族ほどしんどいものはない」と書いている。

 神聖というか、肯定的というか、壊してはならないものとして「家族」が重くかかっている。教育も同じだ。「子どものため」と頑張りや努力を求め、そこで生まれる過ちや危険は「あってはならない」からと無視される。名古屋大学の内田良先生は著書『教育という病』で、「教育という『善きもの』は善きがゆえに歯止めがかからず、暴走していく」と述べている。「平手打ちはあったけれど、生徒の成長を願っての指導であり、体罰ではない」と言った校長がいたし、「悪いことをしたら、殴ってやってください」と言う親もいる。

 教育という名の下に神聖視されればされるほど、そこで何が行われていても問い直されたりしない。いじめも体罰も自殺も、教育の中で生まれながら、問題が教育の中にあると注視しない。目を向けている人はいても、たまたま生まれたもので根本的な問題とは考えない。『病』なら原因がある。家族を、教育を、考え直す時期に来ていると私は思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする