朝の風は冷たくて清々しい。ところが私の身体はこの気候の変化についていくことが出来ない。いやむしろ、過敏に反応してしまう。朝からクシャミを連発し、鼻水が止まらない。みっともないくらい情けない姿である。ルーフバルコニーに出て、サルビアと日日草を刈り取り、鉢の土の入れ替えの準備をする。クシャミと鼻水の止まらない男が、作業する姿は奇怪そのものだろう。
小学校の運動場では今週末の運動会に備えて、猛特訓が行われている。「右向け右、左向け左」の号令と、「ピッ、ピッ、ピッ」の笛の音が喧しい。60年前の私の小学校の時の運動会の練習と少しも変わっていない。どうしてこんな行進練習ばかりしなくてはならないのか、どうしてこれが教育なのか、まるで先生の操り人形じゃーないか。「教育は人格形成が目的」などと言うけれど、一体この行進のどこが人格形成なんだろうと、私は反抗的だったが、教員の父のこともあって態度に表すことはなかった。
中学校の体育大会の行進練習の時、女の子が笑った。先生は「何がおかしい!」と怒鳴った。すると女の子は「だっておかしいもん」とまた笑った。私と同じように感じている子がいることに心惹かれた。その子のことが気になり、次第にやることがみんな好きになった。色白のちょっと変わった女の子は私の初恋の人となった。よく笑うし、よくしゃべる。明るくて、時々思いもよらぬヘマをする。
中学校や高校では、運動会の練習がイヤとは思わなくなっていた。小学校のような意味のない練習がなくなったためだ。高校では生徒会長だったので、私の前を各クラスが隊列で行進していく。ちょっといい気分でもあった。小学校はなぜあんなに行進練習をしたのか、大人になって分かった。伝統ある名門校で児童数も多く、運動会にはたくさんの保護者が見に来るから、先生たちは整然とした行進を見せたかったのだろう。やはり人格形成とは関係ない練習だったけれど、私には支配者と被支配者の学習の場になった。
突然、運動場から「フザケルナ!真面目にやれ!」という甲高い声が聞こえてきた。私たちの頃は男の先生が怖かったけれど、最近は女の先生の方が怖そうだ。それでも、そんなに怒鳴らなくてもいいのにと、また反抗心が湧いてきた。