老人が私に向かって、「ここはもうよい。どこどこへ行け」と言う。私は合点が行かなくて、「行って何をやるのですか?」と聞くと、「お前の思うようにやればよい」と言う。私はこの土地に来て8年で会社を興し、20年で首長選挙に立候補した。誰ひとり知り合いもなく、私に格別な資格があった訳でもなく、全くの無からの出発だった。食べることはカミさんが働いていたから困らなかったので、初めは主夫でもよいと掃除、洗濯、料理とこなしていたけれど、社会とのつながりが欲しくなった。社会からの評価が欲しくなった。
たまたま図書館で、地域新聞が目に留まった。こんな新聞なら自分でも作れる。元々新聞記者になりたいと思うほどの新聞好きだった。けれども知り合いがいない土地ではどうにもならない。地域新聞の多くは地元の有力者が後にいるからやっていける。ならばこの土地の有力者が後ろ盾になってくれれば出来るのではないだろうか。現職の首長はまず無理だろうから、引退した首長に当たってみることにした。これが功を奏して、とんとん拍子に地域新聞の発行へ向かうことが出来た。
広告集めは、子どもが通っていた塾や私が通った床屋からだった。誠に私は運の強い男だと思うけれど、4ページある新聞の表面はこの地域ではトップ企業の広告が、裏面は隣りの街にあるホテルへ飛び込んでウエディング広告を貰うことが出来た。表面の方は、なぜか私を大変気に入ってくれた前首長が興した会社で、「うちの会社が毎回広告を出すから心配は要らない」と言ってくださった。そこで息子である社長を名古屋本社に訪ねると、「オヤジはボケていて、そんな約束は出来ないが、もっと小さな広告なら付き合う」と言われた。
創刊号は出来たけれど、第2号の目途はない。大学で仲良しだったのが飲料水の会社で広告を担当していた。その会社の工場がこの街にある。広告の掲載を相談したところ、年間で契約が成立した。広告集めはいつも大変だった。もう次の号で終刊かと思いながら、飛び込んだ会社や店舗が契約してくれたりの綱渡りだった。しかし、広告は次第に増え、売り上げは毎年伸びた。これは、後ろ盾になることを了解してくれた2人の前首長が私に約束させたことに要因がある。
ひとつは「いい新聞を作りなさい。そうすれば応援してくれる」。もうひとつは「絶対はない。どんなに正しくても反対する人はいる。そう思ってやりなさい」。2人の老人の言葉を噛み締めてやって来た。やがてたくさんの友だちも出来た。5年間はひとりで記事を書き、割付をし、校正し、広告を集め、デザインをし、集金をした。それからは新しい人が増え、事業も増やした。
「もう一度やり直せと言うのですか?」と、私は老人に聞き直した。また初めから、知らない土地の習慣や企業や人物や、ありとあらゆることを調べ、人の輪を、この歳で作らなくてはならないのか。老人は何も言わなかった。どこにもいなかった。大きな溜息が出た。そして目が覚めた。この夢は何だったのだろう。