友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

過大すぎる期待

2013年02月06日 21時42分59秒 | Weblog

 「金メダル至上主義だった」と辞任した柔道日本代表の園田監督が言っていた。オリンピックとなるとマスコミは揃って、金メダルの数を予想してメダル合戦に拍車をかけた。そうした自分たちの姿を反省することもなく、今は「行過ぎた指導」を批判している。マスコミが社会の問題点を暴き提起することに私は異論を持たない。批判精神のないマスコミなら存在価値がないからだ。けれども自己反省は必要だろう。マスコミも決して完全ではないことを知らせることも役割の1つだと思う。

 選手は勝って当たり前で、負けたりすればまるで裏切り者のように扱ってしまう。札幌オリンピックのジャンプ競技では、日本の笠谷幸生選手が優勝し、2位、3位も日本選手だった。冬季オリンピックで3本の日の丸が揚がったのは初めてのことだ。「日の丸飛行隊」などと戦前のゼロ戦飛行隊のような言い方で国民は喜んだ。国民からの期待を一身に背負った笠谷選手は、成し遂げるまではかなりの重圧を受けたはずだ。ひとり孤独に戦う他なかったのだから。

 「そんなに金メダル、金メダルと言わないでください。うまく飛んだ者が勝つ、それだけですから」と笠谷選手はマスコミに言ったけれど、彼の本音だったと思う。人はどうして、他人事になると無責任になるのだろう。自分にはない才能や特質への憧れと期待は、常に大きなものがある。俳優や歌手や選手だけでなく、恋人や子どもへの期待にも似たものがある。過大すぎる期待に応えられなくて自滅してしまうケースも少なくない。

 愛する気持ちも度が過ぎれば、相手にとっては負担になる。私の友だちはヤキモチ焼きで、自分がプレゼントした品物を恋人が身に付けてこないと、「あれはどうした?」と問い詰めたり、彼女に電話やメールが入ると、「誰からなの?」と聞く。彼女も初めは自分のことに強い関心があるのだと嬉しく思っていたが、やがて重荷に感じるようになったらしい。「こんなに自分は愛しているのに」というのは思い上がりである。愛することは待つことに似ていると私は思う。

 期待が大きいのは仕方ないけれど、大きすぎない方が良いし、ましてやそれを口に出したり動作で表せば、相手もそれを意識するだろう。もちろん恋は盲目だから、燃えているうちはそれでいい。けれども恋を冷静に見るようになれば、程ほどの距離を保つことが必要になると思う。それが大人の恋というものだろうし、子どもや憧れの人への期待というもののような気がする。でもなー、そんな冷たい見方でいいのだろうか?そんな不安も拭い去れない。

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市民協働と市民参加

2013年02月05日 19時19分53秒 | Weblog

 先日、「市民協働推進事業補助金」について、市の担当課からの説明会があった。「市民が主役で、豊かに暮らせるまちづくりを推進するため、市民活動団体自らが行なう公益社会貢献事業に係る費用の一部を補助する」制度である。

 その応募資格は、1)構成員が10名以上 2)事業の効果が市内に生じること 3)規約があり継続的な活動であること 4)営利・宗教・政治活動でないこと 5)審査会に出席する 6)翌年の報告会に出席する 以上の6点であった。

 対象となる事業は、ア)特定非営利活動促進法(NPO法)に定める分野 イ)市民が主体になって行なう公益社会貢献事業で、分野はNPOと同じ ウ)イ)で選考を受けた事業を発展したもので、分野は同じ とあった。ただし、補助金額が、ア)は対象経費の70%以内で5万円まで。イ)は80%以内で30万円まで(2回目は70%以内で30万円まで)。ウ)は80%以内で60万円まで(25年度の募集はない)。補助回数は1団体年度ごとに1事業で、補助回数は通算2回まで。

 応募資格も対象事業の規定も、市が考えた末に出した結論だから別に異議を唱えるつもりはない。ただ、よく分からないのは、市が考える「公益社会貢献事業」とは何を意味するのか、何のためのものかということだ。市政の主役は市民なので、市民が自ら行なう「社会貢献事業」には全て補助金を出します。ただし、予算に限りがあるので、このように決めさせていただきましたということなのだろうか。それなら、市民が自ら行なう事業をすべて行政は応援していく立場ですと説明して欲しかった。

 そうであるなら、「予算はこうです。応募資格も対象事業もその規定も、すべて皆さんで決めていただいて結構です」と。それが市政の主役は市民というものだと思う。そうなるともう少し整理していく必要もある。説明会に来ていたのは、自治会や町内会、演劇や合奏・合唱の団体、福祉団体、市民を対象に講座を開いている私たちなど、幅が広い。それに自治会や町内会は住民の親睦を目的にした組織だが、全員加入だから自主組織とはいえない。自治会や町内会には別の項目で補助金も出ているから別枠にすべきだろう。文化・芸術に関する市民活動も永続させるには別の補助が必要だと思う。

 市民活動が活発なまちにしていくことを目的にするなら、市民の幅広い参加と自主性を保障することが必要だろう。行政は縁の下の力持ちに徹して、口を出さず、市民を助ける側に回らなければならない。行政の仕事を市民に任せる度量こそがカギになるように思う。

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平等の原則

2013年02月04日 18時23分01秒 | Weblog

 今日は立春。暖かな春がもうそこまで来ているような気がする。朝からシトシトと雨が降っている。これからはひと雨ごとに暖かくなるのだろうか。いやいや、まだ寒さに震える日が何度かやってくるだろう。それでも植物は何を感じているのか、春への準備を進めている。チューリップの中には、土中から芽を出してきたものがある。1月になってバラ鉢を植え替えたが、枝から新しい芽が吹き出そうとしている。

 66歳で歌舞伎役者の市川団十郎さんが昨日亡くなった。同じ2月3日、慶応義塾の創設者である福沢諭吉も66歳で亡くなっている。私が福沢諭吉を知ったのは「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉からだ。子どもの頃、ラジオの番組で「ルーテルアワー」を聞いていた時、その冒頭でこの言葉が流されていたように思う。でも実際は、「天」ではなく「神」だったかも知れない。そのため私は、福沢諭吉をクリスチャンだと思い込んでいた。

 アメリカの独立宣言も、フランスの人権宣言も、「人間は生まれながらにして平等な権利を有している」ことを謳った。要するに全ての人が平等となったのだ。人間が皆、平等であると叫ぶようになってわずか250年ほどしか経ていない。科学と技術の著しい進歩を遂げ始めて250年というわけである。日本人に限ってみれば、人は生まれながらに平等と実感できるようになったのは戦後社会からだろうから、わずか68年ということだろう。

 この市の議会が発行している「議会だより」を見ていたら、相変わらず遠方へ視察に出かけていた。沖縄県への視察では、宮古島ではエコランド構想を、また名護市や那覇市ではまちづくりや市街地再開発をテーマにしている。沖縄の人々の暮らしや思いを、どこでどのように見たり聞いたりしてきたのだろう。議会では議員定数を減らし、議員報酬を上げるらしい。それどころか政務調査費の引き上げも検討されている。しかも引き上げられるのは党派だけだと聞く。議員は皆、平等の原則はどこへ消えたのだろう。

 平等にやってくるのは死だけかと話していたら、人の死のあり様も不平等だそうだ。手厚い看護などは要らないからコロリと逝きたいなどと言うけれど、それでは病院が儲からないからそうさせてもらえないようだ。だから自分の終末についてはきちんと意思を伝えておかなくてはいけないと言う。住み慣れた家で死にたいと言う人もいたけれど、それでは周りの家族が困るらしい。最終の迎え方も、お金や家族の絆や環境で大きく違うと言う。

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孫娘と沖縄ツアー

2013年02月03日 20時51分10秒 | Weblog

 昨日からカミさんは、パソコンの前に陣取っている。この春に高校を卒業する孫娘とふたりで行く、沖縄ツアーの予約に四苦八苦しているのだ。1月の下旬に思いついた時は、まだ予約に充分な余裕があった。それが昨夜になって予約状況を見ると、キャンセル待ちしかなくて慌てているのだ。そこで新聞広告に載っていた別のプランの予約状況を調べたり、別の旅行会社のプランを見たり、予約をしてみたり解約してみたりと大奮闘している。

 ところが高3の孫娘は先日、学校を2日間もサボった。担任がインフルエンザかと心配して母親に電話してきて、バレてしまったのだ。友だち3人でマクドナルドやスーパーマーケットで過ごしていたらしい。学校へ行く時間に普段どおり出かけて行ったから、母親としては裏切られた気がしたのだろう。小心者でどちらか言えば真面目で堅物な孫娘である。ひとりなら決してこんな大胆なことは出来ないだろう。私は、孫娘もようやく普通の高校生になったと思うほどだ。

 孫娘は自己主張が出来なくて、他人に引きずられてしまう弱さがある。一緒にサボったふたりの話はよく聞いていた。私が中学生の頃に先生から言われていた、「朱に交われば赤くなる」を思い出す。友だち選びは大事なことだからと孫娘の母親に、私たちが彼女の友だちのことを言うと、「私の友だちの悪口は言わないで!」と凄い剣幕で怒ったことがあった。なるほど親が口にすることではないと私は納得した。

 「類は友を呼ぶ」とも言われる。自分が人として品格や教養を磨くことが一番肝心なことだ。すると自然に自分が欲しい友だちが出来る。自分よりも志の高い友だちが周りに増えていくものだ。優しさばかりが目につく孫娘なので、家庭に問題を抱えている子が癒しを求めて彼女の周りに集まってくる。小・中・高校と相変わらずだけれど、やはりここで一歩飛躍して欲しい。

 母親と同じ看護の道に進むと決めた孫娘は、「ママ、看護学会で会いましょう」などと言っているけれど、母親がどれほど大変な努力を払っているか、現場に出るようになれば分かるだろう。大学生になっても、看護の勉強は相当に厳しいと聞く。遊び呆けていられるのも今のうちだ。おばあちゃんとの沖縄旅行もよい記念になるだろう。茨城に住む母親の妹のところへひとりで出かけるのもよい経験だ。能天気な孫娘も少しずつ大人になっていく。頑張れよ。

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夢なんか持てないでしょう

2013年02月02日 19時13分26秒 | Weblog

 友だちが私の友人の息子に、「付き合っている人がいるか、いないなら紹介する女性と付き合う気があるか、聞いて欲しい」と言う。友人の息子は36歳で、休みの日にはサイクリング自転車を担いで出かける姿を見かけるから、付き合っている女性はいないように思う。しかし、それは見た目での判断なので、両親に聞いてみるのが一番確かだろう。そう思って、「こんな話があるけれど」と友人のカミさんに話すと、「あの子はダメよ」と言う。

 「お母さんの考えではなく、息子さんの意思を確かめて欲しい」とお願いする。すると、「ノーサンキューだって」と返事がきた。女性嫌いとか女性恐怖症とかいうわけではないだろうが、結婚する意思はなく、したがって相手の女性の写真を見る必要もないというのだ。20代ならもっと結婚を意識していたのかも知れないが、30代も半ばを過ぎてしまうと、結婚に対する強い願望がなくなるのだろうか。

 そういえば以前私の知人に、とってもいい話と思う縁談があった。お見合いなどという形式ではなくても、会うだけでもいいじゃーないかと誘ってみたけれど、「幸せにする自信がない」と断られた。結婚するのに、不幸にする決意の人はいないけれど、幸せにする自信があるから結婚するという人も少ないだろう。先のことは分からないけれど、ふたりで何とか幸せになりたい、そう思って結婚する人が大多数だと思う。

 ドラマで「幸せにします」というセリフがよく出てくるけれど、もちろんその気持ちにウソはないだろうが、100%自信があるわけではなく、決意を表しているに過ぎない。若い人と話をしていると、結婚するにはある程度の貯金がなくてはならないようなことを言う。貯金があるに越したことはないが、金は無くても結婚は出来ると話しても、「それは無理でしょう」と極めて現実的だ。

 若い人は、結婚はこういうもの、家庭はこういうもの、まるで試験の答案のように確かな答えがあり、限りなく満点に近くなければ見送ってしまうようだ。危険な橋は渡らない。それで苦労するよりはこのままでよい。「愛」などという不確かなものは怖くて近づけないのだ。子どもの頃から、どうも先を読むクセが付いてきている。どうせやってもダメなものはやらないと決めてしまい、無駄な努力はしない。恋愛に憧れを持つのは高齢者で、今の若い人はそんなメンドクサイことに夢中にはならないようだ。

 若い人に「夢がないなー」と言ったら、「夢なんか持てないでしょう」と返ってきた。

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暴力に線引きなどない

2013年02月01日 19時03分50秒 | Weblog

 テレビで柔道女子日本代表の監督、園田隆二さんの記者会見を見ていた高校3年の孫娘が、「(自分が通っていたスイミングスクールの)コーチはセクハラだね。私たちみたいに大きい子は分かっているからいいけど」と言う。コーチが「やるぞ」と表明し、選手が「やられた」と了解しているから「いい」けれど、何も分かっていない小さな子には、コーチの「バツ」はセクハラだと言うのである。

 園田監督も「暴力という観点で手を上げた認識は全くない」「感情的にたたいたのではなく、強くしたいという思いだった」と話していた。トークショーでもゲストが「体罰は絶対にいけない。どこまでかという線引きが大事だ」と言う人がいた。信頼関係があれば多少のことはいいという論理だ。園田監督も「私の一方的な信頼関係だった」と話していたから、監督と選手の間に信頼関係が出来ていれば、たたいても蹴っても問題は起きないと思っていたのだろう。

 それは孫娘たちにも言えることで、たたいたり殴ったりつねったり触ったり、それは指導者が教えるための手段で、好意から生まれたものと思っている。そのように了解できれば、後はどこまでならば指導を越えない行為か、線引きの問題というのである。憎いからたたくのではない、むしろ涙を流しての「愛のムチ」だと、指導者も教えてもらう側も、そして世間もそう受け止めてきた。父兄の中には「たたいてやってください」とお願いする者もいるくらいだ。

 スポーツ界では当たり前と思ってきた指導者に絶対従うことが、「良い結果を生む」「強い選手になる」「試合で勝てる」神話を作り上げてきた。しかし暴力に線引きなどはない。たたかなければ指導できないようなコーチや監督はいらない。信頼関係は理論や情熱で作られるのだろうけれど、たたいたり暴言を吐いたりすれば、その途端に崩れてしまう、そういうものだとしっかり学ぶべきだろう。

 我が子であっても別の人格である。ましてや選手や教え子をたたかなければ理解させられないのであれば、指導者失格である。どこかの高校の運動部の監督が「たたかれなければ分からないヤツは犬猫以下だ」と言って、殴っていたそうだが、理解させられない自分こそ恥じるべきだ。園田監督がマシなのは、自らテレビの前に出て謝罪したことだ。桜宮高校の先生は「体罰を行なったことはなく、あくまでも指導の一環である」と主張するなら、なぜ公の場で堂々と自分の教育論を述べないのかと思う。

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