友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

震災から学ぶー秋の研修旅行 その2

2013年10月21日 18時39分36秒 | Weblog

 思ったよりも早く仙台に着いた。駅の案内所でレンタカーの場所を聞く。教えられた駅レンタカーは乗り捨てサービスがないと言う。花巻空港で予約していたのはトヨタレンタカーなので、その営業所を教えてもらい、西口から東口へと回る。ところが、駅のどこを通過できるのかが分からない。3人に尋ねてやっと東口に出る。営業所はすぐに見つかったが、人が次々と出てくる。嫌な予感だ。私の前の人も「車がありません」と断られていた。もし、車が借りられなければどうしようかと考える。

 営業所の人に説明して、「どんな車でもいいから、とにかく用意して欲しい」と頼み込む。ここでレンタカーを借りられたら、夜までに気仙沼へ行けるだろう。そうすれば、翌日からは予定どおりに行動できる。「お願いだから何とかして欲しい」。気の毒に思ったのか、「時間が少しかかりますがいいですか」と言ってくれる。これで何とかなったと思った。ワゴン車を用意してくれた。「本当にありがとう。あなたのことはしっかり覚えておきます」と礼を言って車に乗る。

 仙台から東北高速道路で一関へ、そこから気仙沼へと走る。雨も上がり、道は空いている。順調な滑り出しだ。しかし、気仙沼の民宿のカミさんから、「こちらは台風で道路も見えない。危険だから来ない方がいい」と電話をもらったので、泊まる宿がない。仲間が気仙沼の旅館やホテルを調べてくれて、やっと予約するが、「今晩の食事がつかない」と言う。寝るところさえあれば充分だ。夕暮れはあっという間に闇へと変わる。初めての道で、標識も少ない。気仙沼へ辿り着いたのはそれでも午後6時頃だった。

 予約したホテルは、立派過ぎて通り過ぎたくらいだ。部屋に荷物を置いて、ホテル近くの「屋台村」へ行く。気仙沼は港町で、港にはたくさんの漁船が停泊していた。台風のために出港できなかったのだ。「屋台村」も提灯は点いていたけれど、店はほとんど閉まっていた。営業していた店を覗き、鮮魚が食べられそうな居酒屋に入る。屋台村は被災した人々がやっとの思いで再開した店である。津波の話やどうしているかの話を聞くことが出来た。

 どうにかこうにか、よく来られたものだ。もし、明日、時間があれば「来ない方がいい」と言ってくれたカミさんに会って来よう。世知辛い世の中で、相手のことを思いやってくれる人がどんな女性なのか見てみたい。夜の気仙沼は静かだった。震災の跡は余り見えなかったが、翌朝、周りが明るくなるに従って、その爪痕がはっきりと見えてきた。

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震災から学ぶー秋の研修旅行 その1

2013年10月20日 18時35分15秒 | Weblog

 『震災から学ぶ―おたすけ秋の研修旅行』は、出発から多難だった。仲間が急に行けなくなったことは致し方ないとしても、まさかこんな困難に見舞われるとは思いもしなかった。台風26号が一気に近づいて来ていた。本土への襲来はないだろうとの希望的観測を覆し、東海・関東・東北は暴風圏となった。前日にコールセンターに飛行機が飛ぶかと聞くけれど、「判断は空港で聞いてください」と言うばかりだ。

 参加者全員に「旅行には出かける。どうするかはその場その場で決める」と連絡する。こちらから一緒に行く人だけではない、神奈川県川崎市からも参加するから、場合によっては行き先を変更してもいい、そう覚悟をした。16日午前6時30分、名古屋空港に集結した。飛行機が飛ぶのか否かをじっと待つ。私たちの他にもツアー客もいればビジネスマンもいる。フライト時間の直前になって、「欠航」とアナウンスがあった。

 川崎市の仲間は既に家を出ている。私たちも急いで東京まで行き、そこで落ち合うことにする。帰りの18日は良い天気との予報だったので、往きの便だけをキャンセルして名古屋駅往きのバスに乗る。新潟へ帰る人、岩手へ行く人、空港から仕事に出かける人、栄の会社へ出勤する人らが一緒だった。バスに乗ると目の前に虹が大きな半円を作っていた。風もなく穏やかな早朝である。ところが、名古屋駅に着くと大勢の人でごった返していた。

 新幹線は動き出していたけれどダイヤは大幅に遅れていた。在来線は運休のものもある。伊勢参りの人、その帰りの人が目につく。ところが新幹線の改札口・ホームは背広姿の人々で混み合った。自由席で行けば早く着くだろうが、何時間かかるか分からないのに席がないのでは老人には無理だ。行き先を仙台として、東海道新幹線の座席指定を買い、とにかく東京へと向かう。名古屋は青空だったが、東へと向かうに従って雲が広がっている。

 ケイタイがなければ落ち合うことが出来なかっただろう。お互いに自分がいる場所を伝え合ってもさっぱり分からない。駅員もそれどころではないほど忙しい。川崎からの仲間に、「行き先を仙台までに変更し、東北新幹線のホームで落ち合いましょう」と連絡する。午後1時過ぎ、東北新幹線「やまびこ」が東京駅を出発する。私たちは名古屋駅を出て3時間かかったが、川崎からの仲間は東京駅に着くまでに6時間かかった。東北新幹線も遅れてはいたけれど、午後3時前には仙台に到着できた。

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病院で聞いた会話

2013年10月15日 18時33分54秒 | Weblog

 ひとり暮らしの姉を連れて病院へ行った。姉は週に一度、点滴を受けている。日頃は嫁に行った娘が付き添って行くのだが、その姪が「今日、(義理の)お母さんが心臓の手術をすることになったので、お兄ちゃん(私のこと)代わりに行ってくれない?」と言う。姪っ子の苦労を考えれば、私が出かけることなど全く比ではない。姉の住む市営住宅へ迎えに行く。住宅から出てくる人を見ていると年寄りばかりだ。それも健常と思われる人たちは少ない。姉も歩くのが不自由になったと言う。83歳なのだから仕方ない。

 病院は入院設備のないクリニックで、椅子の余裕がないほど混んでいる。ほとんどが高齢者だけれど、20代から30代の男女もいる。女の人は分からないが、男の人に「ガーゼを取り換えますね」と看護婦さんが声をかけていた。受付は若い看護士さんだが、診察室や治療室で働いている看護婦さんは主に60代の女性が2人、点滴や採血などをやりくりしていた。姉が点滴を受けている間、私は病室の前で患者さんたちの会話を聞いていた。

 男女で病院に来ている患者は夫婦だろう。まだ50歳前後の夫婦がいた。カミさんは雑誌を見ていた。ダンナの方は絶えずしゃべっていた。ダンナが琵琶湖へ行ったことがあると言うと、カミさんは雑誌を見たまま、「それは良かったわね」と言う。そしてダンナが「琵琶湖を一周した」と言うと、カミさんはやはり雑誌を見たまま「凄いじゃん。よくやったわね」と言う。ダンナが「足が浮腫んでる。悪いところばっかりだ。何ひとつといいところがない」と言うと、カミさんは雑誌を見たまま「そんなことないじゃん。いい顔してるじゃん」と言う。

 ダンナが何を言っても、どんなに同じ話を繰り返しても、カミさんは否定しなかった。「そうだね」とか「そうよ」とか相槌を打っていた。雑誌ばかり見ていると思っていたが、このカミさんは試練を乗り越えてきたのだなと思った。点滴が終わって、先生が治療室にみえたので礼を言い、姪の義母が入院したことを伝えた。私が姉と一緒にいたのは3時間ほどだが、姉の認知症は進行していると感じた。では、どうしたらよいのか、どうすることも出来ない。先のことは神様に任せる他ない。

 明日から18日までは岩手へ井戸掘り仲間と出かける。そして、19日は高山へ出かけるので、4日間ブログは休みます。

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『地球のステージ2』

2013年10月14日 18時26分08秒 | Weblog

 仲間は井戸掘りで出た土の埋め戻しに行っているのに、私は北名古屋市文化勤労会館で行なわれた男女共同参画事業『地球のステージ2』に実行委員として参加しているので、申し訳ない気持ちでいた。そこへ仲間から電話で「やり直すことになった」と。よく聞き取れなかったので、3度も「もう一度言って」と聞いてしまった。それで仲間も諦めたのか、「冗談ですよ。順調に水は出ています。成功です」と言う。一瞬、聞いた時はビックリした。あれだけ今度は慎重にやったのに、ダメならばどうしたらよいのか、そんな不安が過ぎった。

 成功と聞いて心も軽くなった。『地球のステージ2』の準備に気持ちよくかかれる。大和塾のパネルもすぐ完了した。「大和塾はとても素敵な講師が多いですね」と褒めてもいただく。さて、開場となる午後1時前に、既に多くの人が入り口に並んでいる。3月に続く第2弾ということらしいが、私は初めての参加だ。男だから、女だから、そういう意識は私にはない。むしろ意識の問題よりも社会の制度の問題ではないのかと思っている。みんなが気持ちよく暮らしていける社会はどうあったらよいかを追及していくことだと思う。

 『地球のステージ』は、医師の桑山紀彦さんが映像と歌で行なうものだった。桑山さんは人に接することが苦手の少年だったそうだ。それが山形大学医学部の学生の時、旅をするようになって少しずつ変わっていく。インド(間違ってるかも知れない)を旅行した時、ひとりの少年に出会った。そのおばあさんは目が悪かった。桑山さんは自分の目薬をあげた。そして思った。自分でも人の役に立つことが出来る。それから、旅をしていろんな人に巡り合う。カンボジア、イラン、パレスチナと巡り、紛争や貧しさに苦しむ子どもたちの心のケアに取り組む。

 東北の震災後は子どもたちが何を思い生きているかに焦点を当てて、被災した人々の「心のケア」に取り組んでいる。プログラムが盛りたくさんあって、まとまりがなくなってしまうように思えたが、「一生のうちに何人の人と心を通わすことが出来るだろうか」に集約されているようだ。人に出会い、そして心が通うようになる、それが人々を平和なつながりへと導いてくれる。桑山さんはそう伝えたかったのだと思う。

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いつも前向きに生きるしかない

2013年10月13日 20時24分43秒 | Weblog

 井戸掘り仲間はおしゃべりが好き。今日も井戸掘りで、最後の確認をしながら埋め戻しにかかった。何の話からそうなったのは分からないが、東京で女子高校生が殺された話になった。「高校生が付き合ってなんかいたらいかんよ」。「付き合うって、東京と京都なんだろう。電話かメールのやり取りをしていたってことだろう」。「付き合うというとすぐに不純異性行為を想像するんだから」。「懐かしい言葉を知っているね。昔は文通だったものだが」。

 そんな60年も前の話を持ち出されても困る。確かに私たちの高校生の頃は手紙だった。かなり“発展した仲”と言われているカップルでも、街中をふたりが手をつないで歩くこともなかった。文通が流行していて、その文通友だちに会いに出かけた者もいた。喫茶店に入るのは禁止だったから、付き合うと言っても、どんな形だったのだろう。私は中学から好きな女の子がいたけれど、ふたりだけで話したことはないし、手紙をやり取りしたこともなかった。

 「男は自分が好きだと思うと、相手も自分のことを好きだと思い込む。女はダメと思った時から、男のことなんかすぐ忘れられる。それが女だと男は知らないから、どこまでもいつまでも女を追いかける。女はねえ、忘れられる特技を持っているのだ」。なるほど、それってご自分の体験ですかと聞きたいところを堪える。先輩がどんな女性とどのようにして結ばれたのか、一度聞いてみたい。

 「結婚なんてものは打算だよ」。えっ、それが結論なの?「男が女に“幸せにするから”と言うが、あれが間違っている。男も女も自分が幸せになりたいから結婚するのであって、相手を幸せにしたくて結婚するわけではない」。そうかな、そんな打算的とは思わないけど。「男はこの女と結婚すれば、飯は作ってくれる、掃除洗濯はやってくれる、それにSEXもできる、そんなことしか考えていないさ。女だって同じさ。この男と暮らせばいい生活が出来る、楽になれると思うから結婚するのさ」。

 どうもこの人の言い方はいつも極端だ。反省することはないのだろうか?「経験から学ぶことはあっても、過去のことにこだわるのは愚かなことだ。過ぎてしまったことを取り戻すことは出来ない。人間は前を向いてしか生きていけないのだ。過去なんかどうでもいいことなのだ」。いつも前向きに生きる。それしかないのか、そう思うと何だか元気になれた。

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保育園の『祖父母参観の日』

2013年10月12日 18時40分58秒 | Weblog

 4歳の孫娘が通う保育園の『祖父母参観の日』に出かけた。ひとりの孫に、両親とその両親の親、4人のジジババが参加するので、保育園は人でごった返していた。孫娘のクラスの保育士はふたりで、若い男性と女性だった。男性の方は女性の補助で入っている先生かと思っていたが、終始男性の先生がリードしていた。男性と女性のふたりで担当するのは、この保育園の特長らしい。孫娘のクラスだけでなく、他にもかなりの数の男性の先生を見かけた。

 孫娘のクラスの男性の先生はどんな授業をするのかと思って見ていた。ところが電子ピアノの演奏も歌も体操もとてもうまかった。子どもたちの扱いや心配りも充分すぎるくらい出来ていた。孫娘は母親よりも父親が好きなように、女性の先生よりも男性の先生を身近に感じているようだった。男性の保育士が多くなったのはよいことだと思う。ただ、この若い男性の先生もいつかは歳を取る。40代までは園児らと一緒に歌ったり踊ったり出来るかも知れないが、50歳を過ぎても出来るのだろうかと少し思った。

 多分、どんな社会でもどんな仕事でも、やってしまえば出来ないことはないのかも知れない。歌舞伎のように、見世物で演じていた頃は女性が主流だったのに、それがダメになった時は男性が女性に扮した。若い人たちが中心だったはずだが、次第に年老いた男性も蓄積した技で舞台に欠かせない存在になっていった。これは女性の、これは男性の、そう決め付ける根拠は、本当はないのだろう。仕事というものはそんなものなのかも知れない。

 4歳の孫娘に6人の大人がいるのだから、孫娘は当然わがままになる。長女にしてもダンナにしても年取って出来た子だから可愛いのは当たり前だ。孫娘もその辺はよく心得ていて、どこでどんな風に泣けばよいかが身体に染み込んでいる。保育園に来る前、そして帰る時、ちょっと駄々をこねた孫娘だが、保育園ではいい子を演じていた。周りに気遣いしている。女性の先生は孫娘の行動が気になるのか、時々注意が飛ぶ。

 こんな機会がないとダンナの両親に会えない。運動会の日は私が早く帰らなくてはならなかったので、今日はお父さんに付き合うつもりだった。それで、昼食に生中を2杯もいただいた。

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再び水は出たが‥

2013年10月11日 18時24分04秒 | Weblog

 「井戸掘りはどうなったの?」と言う。「ああ、今度は大丈夫だと思う」。昨日、先回水が出た深さまで掘り進めた。この先は、水を汲み出しながら、石や砂を掘り出せるだけ掘り出した、そう思ってエンジンポンプで水を汲み出す。どんなに汲み出してもなかなか水位は下がらず、底の石や砂を四つんばいになってかき集め、バケツに入れ、引き上げて外に出す。穴の中で作業している仲間が、「周りから砂や石が落ちてきて危険だ。これ以上は出来ない」と言う。

 やはり先回と同じだ。水量を確保するためには、水の底を出来るだけ掘り下げる以外にないが、これ以上は出来ないとなると、さてどうするか。以前、半田市で行なったように、コンクリート枡を沈めて、水の溜まる空間を作る方法がよいのだろう。穴の底一面にコンクリート枡を置く予定だったけれど、途中で2つ割れてしまった。埋め戻した土の重さに耐えられるか心配だが、塩ビ管も使った。今度はすぐに埋め戻さずに、中央の塩ビ管に吸水ホースを入れてエンジンポンプで吸い上げてみた。水は枯れることなく、勢いよく出続けた。

 この日が一番長い時間作業した日になったのに、疲れが感じられないのは不思議だ。成功と不成功では、人の受け止め方は随分と違うと実感した。春日井市での井戸掘りは苦難の連続だった。井戸掘りに対する考え方に違いが生まれ、仲間を離れる人が出てしまった。私たちは遊び心を持って井戸掘り、依頼主に喜んでいただき、地域からも感謝してもらい、それで報酬もいただき、1年に2回くらいは酒宴が出来る。時には旅行にも出かけられる。こんな楽しいことはないと思っていた。けれども本職でこの仕事をしてきた人には不満があった。小遣いが出来ると思った人にも不満が生まれた。

 今まで6人から7人で作業をしてきたのに、それが4人あるいは3人の時もある。遊び心を持ってとは、遊びとは違う。現役の時のように、儲けを考えないで、仕事を楽しもうということである。馬鹿話をして、笑っているが、作業は真剣だ。みんながそういう気持ちでいると信じてやって来たけれど、人間は難しい。大地よりも手ごわい。日曜日には再点検して、いよいよ埋め戻す。そして手押しポンプを据付ければ完成である。

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みずほ銀行の失態

2013年10月10日 21時18分05秒 | Weblog

 みずほ銀行が暴力団組員に融資をしていたことで、連日、頭取ら役員が頭を下げている。初めは「法令担当の役員止まりだったので、問題については把握していない」と謝罪し、担当役員に聞き取り調査をしたのかと質問されると、「これから行なう」と答えていた。ところが昨日は、「経営トップにも報告されていた」と訂正し、これが大手銀行の経営者なのかと驚いた。『半沢直樹』ドラマのようなことが、本当に起きている。暴力団組合員に融資をしたことよりも、問題が生まれた時の対応が隠蔽体質そのものでいかにも不誠実だ。企業というものは結局そうなのだと結論付けるに充分な事件である。

 暴力団だから、オウム真理教だから、という直線的な捉え方で本当にいいのかと私は思う。悪い奴はみんなで懲らしめたらいいのだと言う。悪い奴ってなぜ言えるのか、懲らしめるってどうすることなのか、問い直さなくてもいいのだろうか。子ども向けの絵本に『なぜ戦争はよくないか』(アリス・ウォーカー文 ステファーノ・ヴィタール絵 偕成社)がある。内容はかなり抽象的だが、説得力がある。アメリカ人の中にもこういう考えの人がいることを知ると、あの広大な野原が優しく思えてくる。

 「人を殺してはいけません」と誰でも言うし、これを否定する人はいない。じゃあー、「なぜ人を殺してはいけないの?」と質問されたら、キチンと答えられるだろうか。いや本当は、何が何でも答えられるようにしておかなくてはならないのだ。直線的に「ダメ」と考えるのではなく、自分なりにキチンとした答えを出せるようにしておくことが必要だ。「テロは許されない行為」であるが、なぜテロが起きるのか、テロに走る人たちの言い分も聞き、その上でテロのない社会を作り出さなければならない、これが人間社会の生き方だろう。

 みずほ銀行の役員さんたちは、なぜダメなのかと考えたことがなかったのだ。漠然と、ダメだろうとしか思っていなかったから、いざ自分に火の粉が降り注いでくると、自己保身のための言い訳ばかりになってしまう。半沢直樹ではないが、「銀行とは」という信念が彼らにはなかった。おそらく何でもそうだろう。自分がやっていることに対する信念がなければいい仕事など出来ない。

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ルーム長からのメールとハガキ

2013年10月09日 19時06分09秒 | Weblog

 朝、台風の影響で空は曇っていたが、雨はまだ降りそうになかった。春日井市での井戸掘りは苦戦続きで、6日に埋めた穴をもう一度掘り直した。今日中に初めに水が出た深さまで掘りたい、そう思って出かけた。何とか順調に進み、水面が見えてきた。ところが雨が降り出した。丁度、昼食時間だったから、食事をしてから考えることにした。食事を終わって現場に戻るが、雨は止みそうにない。予報では、今日の午後からは雨、でも明日は晴れるとあったので、作業は明日に延ばした。

 私のブログを見ている生徒だった60歳になるオジさんが、体育祭を懐かしんでメールをくれた。来年、高校受験を控えた「息子が超反抗期だが、受験勉強は親がすることではないですから」と冷静に息子を見ている様子が分かる。それでも「来年から彼がどんな高校生活を送るのか、楽しみだったり不安だったり」と本音を吐露していた。そしてまた、先日クラス会を開いた生徒からもハガキが来て、「同級生と共に語り合い、大変な感動を受け、貴台並びに‥とお会い出来た事に大変うれしく思い一筆したためました」とある。

 ふたりともルーム長を務めたしっかり者で、クラスのみんなから人望があった。メールの主はギターを弾いてバンドも組んでいたから、息子もきっと女の子にモテルだろう。デザインのセンスも良くていい仕事をしていたから、いいオヤジを続けて欲しい。ハガキの主は昔から堅かったが、気が回る男だった。それにしても私よりも年上かと思うほどの文面に驚いた。私の方がみなさんにお礼状を出さなくてはいけないのに、こういうところも彼らしい。

 生徒たちが制作したアニメ『ハチのむさし』をDVDにしたように、私が撮った子どもたちの8ミリフィルムもDVDにした。それを見た長女は「まだゆっくり見てないけれど、自分の多動にびっくりだわ」と感想をメールしてきた。私はすぐに「多動性症候群と思ったかも知れませんが、ただ、ひょうきんだったのだと思います。受け狙いですね。大きくなるにしたがって、ひょうきんなことをしなくなりましたからね」とメールした。

 自然児であれと育てたけれど、子どもは大人の受けを気にする。それが自由奔放でオーバーな表現になった。長女は明るいだけでなく、思いやりのある人に成長した。それで充分だと思う。

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忘れるから生きていける

2013年10月08日 18時31分26秒 | Weblog

 「あの時、オレはどうして振られたの?」と、男が女に聞いていた。「何のこと?」。「みんなで入鹿池へ行った時、一緒にボートに乗ったじゃーないか。付き合ってくれって言ったのに」。「エッ、全然覚えてない」。男は40年も前のことをまだ覚えているのに、女はそんなことは知らないと言う。何十年ぶりかのクラス会ではよくある話だ。物知りが言う。「女は忘れるから生きていける」と。

 そうかも知れないが、のぼせた方はいつまでも覚えているのに、言い寄られた方はなぜ記憶にないのだろう。カミさんは孫娘に、「ママちゃんは恋愛したことがなかったねぇ」などと言う。傍にいる私は立つ瀬がない。あれはいったい何だったのだろうと考えてしまう。とはいえ、過ぎ去った昔のこと、女性が忘れるから生きていけるのなら、私も女性を見習おう。明日に、近い先に、きっと良いことがあるだろう、そう思って生きていく方がいい。

 2次会で男の子たちと話していた時、「今日は誰一人、病気のことや孫のことを話さなかったね」と言われ、自分の中学の時のクラス会を思い出した。私たちは40年ぶりの再会ではないからか、病気の話や孫の話が出ていたように思う。だいたい私たちのような年齢の者が集まると、自然に病気の話や孫の話になるから不思議だ。中学・高校からの友だちが「そんな昔の話ばかりして、何が面白い」と皮肉ったことがあったけれど、老人になると昔の話か病気や孫の話になるものらしい。

 明治維新でもロシア革命でも、現在のシリアやエジプトや中国などでも、歴史を大きく転換してきたのはみんな若者だ。少なくとも60歳過ぎの老人が先頭に立つような事件はなかった。世界の政治家と言われる人たちも、今ではもうすっかり年下である。昨日と今日の2日間、私は大和塾の案内を送るために時間を使った。パソコンでラベル印刷して封書に貼り付け、案内文を封書に入れ糊付けして、市内と市外に分けて郵便局へ運ぶ。以前は孫娘が、「こういう単純作業は好き」と言って、手伝ってくれた。

 その時は何も思わなかったけれど、黙々とやっていると、こういうことって好きなのかも知れないと思った。庭で鉢の土を入れ換えることや、今は描いていないが、絵筆を握る作業もよく似ている。何も考えずにただひたすら、キレイに仕上げることだけを目指す。こういう生き方でいいように思う。

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