友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

孫娘の言葉にビックリ

2019年03月19日 17時47分52秒 | Weblog

  昨夜の様子では、小3の孫娘の頭のケガは大したことではないようだ。それでも1ヶ月は様子を見る必要があると医者は言う。その時の問診を聞いていて、恥ずかしいやらビックリするやらのやり取りがあった。長女が診察してくれる若い医者を「小児科の腕のいい立派な先生」と紹介してくれた時、抜群のタイミングで、孫娘は「それなりに」と言う。

 そんな失礼なことを言うなんてと思うが、以前からの知り合いのようだ。先生が「頭は痛くないか」と聞くと、「今は大丈夫」と言う。「目が回ったり、クラクラすることは?」と聞くと、「ない」と答える。「ボーとすることは?」と尋ねられた時、「いつもボーとしている」と平気で言う。何!それ!と思っていると、「授業が始まって、ボーとしていると終わってる」と言う。

 ウケを狙って言っているのか、それとも本当によく分からないうちに授業が進んでいるのだろうか。子どもは時々、大人のマネをして、とんでもないことを口にする。昨夜も一緒に食事をしていたら突然、「私はママとパパの本当の子ではないかも知れない」と言い出す。「どうしてそう思うの?」と聞くと、「だって、勉強はできないし、ぜんぜん似ていない」と言う。

 両親の血をしっかり受け継いでいると思うが、女の子は時々こんな夢想に陥る。「悲劇のヒロインなの、私」というよくあるストーリーを自分で組み立てるのだ。アニメが好きだから、そんな物語があるのかも知れない。娘たちが子どもの頃はテレビでアニメを観ていたから、私も見る機会があった。けれど、小3の孫娘はスマホで観ているので、どんな物語なのか分からない。

 「夢想クセはあなたのママと同じだね」と言いそうになったが止めた。それは私も同じだから。「ママちゃんと好きな食べ物が一緒なんだ」と喜んでいたのに、私と同じクセがあると言われたら、「イヤ」と言うだろう。バアバはよいのに、どうしてジイジはイヤなのかなあー。

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小3の孫娘が頭にケガ

2019年03月18日 18時55分55秒 | Weblog

 穏やかな晴れだったので、ルーフバルコニーでバラの植え替えをしていたら、カミさんが小3の孫娘を学校へ迎えに行き、母親が務める病院へ連れて行くことになったから、「運転して行って」と言う。聞けば昼休みにドッヂボール遊びで転倒し、後頭部を打ったので、学童保育所では何かあった時に迷惑がかかるからということであった。

 学校へ行くと、比較的元気だったが、「頭の後ろが痛い」と言い、アイスノンで冷やしていた。身体は大きくなったがまだまだ幼くて、どうしてもふざけてしまう傾向がある。目立つようなケガでなくてよかったが、頭は万が一のことがあるから、専門の先生に診断してもらった方が安心だ。今でこそ看護師を務めているが、孫娘の母親である長女は小さな時からケガが多かった。

 鉄棒をしていて頭から落ちたり、学童クラブでスチールの書棚によじ登り、降りてくる時にスチールの柱を握っていたから、手のひらを切ってしまったり、キャンプに行ってキャビンのベッドで飛び跳ねて電灯に頭をぶつけ、何針か縫ったこともある。明るくて積極的と言われていたが、おっちょこちょいで学校でもよく問題を起こした。その娘だからか、小3の孫娘もよく似ている。落ち着きがなくて、じっとしていられない。

 子どもは自由でいい。大きくなれば何が大切かは分かる。自分で気が付くように仕向けてやるのが親の務めで、「ダメ」ばかり言っては子どもが成長しない。そう思って、私は子どもを自由にさせてきた。けれど、小学校の教員だったカミさんは、「そんな風に、あなたが甘やかすから、私の言うことを聞かない。これでは学校で落ち零れになってしまう」と血相を変えて私に怒ったことも何度かある。

 でも、今では、ふたりの子どもは立派な女性になっている。思いやりがあり、気配りができる、優しい女性だ。孫のひとりはもう立派な社会人となり、後のふたりはまだまだこれから成長していく楽しみがある。それに決して親やジジババを裏切るようなことはないだろうと確信している。親の愛情が豊かなら、子どもは間違いなく立派に育つ。親の都合の良い子にしてはいけないだろう。

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父親への追悼コンサート

2019年03月17日 18時25分15秒 | Weblog

 ランチの後、午後1時半からコンサートが始まったが、2部は休憩を挟んだ3時からだったので、長女のダンナが気を利かせて、近くの駅まで送ってくれたから、5時前に家に帰ることが出来た。カミさんは5時から会議があると長女のダンナに伝えていたらしい。私は予定があった訳ではないから、最後まで居てもよかったが、それではまた余計に世話をかけることになると思い、カミさんと一緒に帰ってきた。

 コンサートは長女のダンナのお姉さんが、父親との思い出を語りながら歌う、「父への追悼の歌の会」で、参加者の多くが親類縁者と思われる。お姉さんは学校の先生だが、声楽家でもあり、このところよくコンサートを開いている。お父さんは欠かさず参加し、娘の歌を評価していたようだ。当初は厳しいことを言っていたらしく、「気持ちが凹んでしまった」と言う。「褒めないと伸びないよ」とお父さんに告げたら、ある時、「うまくなった」と言ってくれたそうだ。

 お父さんも音楽好きで、若い頃はジャズバンドを組んで演奏していた。サックスを担当していたと聞いた。ピアノも弾けたし、歌もうまかった。長女夫婦に子どもが生まれた時、私に「『孫』を一緒に歌いましょう」と言われたが、実現しないまま亡くなられた。子どもの成長を喜ばない親はいないが、どうも父親はうまく表現できないようで、励ましのつもりで言ったのに、相手を落ち込ませてしまうこともある。

 父親は子どもたちに自分の夢を語ることなど恥ずかしくて出来ないから、家庭では無口になるか、小うるさい存在になってしまいがちだ。私の父は高3の時に亡くなったから、男同士で酒でも飲みながら話すことは出来なかったが、その代わりカミさんのお父さんの話し相手にはなれた。私の父が長生きしたとしても、多分男同士の話など出来なかっただろう。父親と子の関係は、当然のことだが、友だちのようにはならない。

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知らなければ選択もできない

2019年03月16日 15時14分45秒 | Weblog

  亡くなったチェリストの彼は、20年くらい前になるが、まだ珍しかったマンゴーを持って行った時、マンゴーの切り方を教えてくれた。なかなかおしゃれな人だった。そんな夫を持つ彼女は、「彼の言うことに逆らったことは一度もない」と言う。しかし、「もう少し私が言ってたら、もう少し長生きできたかも知れない」と悔やむ。

 「彼は彼の人生を、あなたはあなたの人生を歩んできた。振り返ることは出来ても取り返すことは出来ない。いい思い出がいっぱいあった。それでいいじゃーない」と言ってみたが、慰めにはならなかったかも知れない。「とにかく今は、4月7日のコンサートに、いっぱい来てもらうことが彼への追悼になると思うよ」と話す。

 『メモリアルコンサート』のチラシは公共施設には置いてもらった。市民管弦楽団の定期演奏会や音楽グループのコンサートでも、チラシを配布させてもらった。どんなに自分が一生懸命に宣伝しているとしても、届かなければ何も伝わらない。新聞のチラシ効果は3%と聞いたことがある。1万枚配って、3百人に関心を持ってもらえれば効果があったという。

 まだ、1千枚くらいしか配っていないだろう。チラシ効果の計算なら30人しか来てくれないことになってしまう。とにかく、4月7日にチェロのコンサートがあること、入場無料だから、都合がつくなら行ってみるか、そんな風に思ってもらえればいい。知らなければ、参加することは出来ない。知ってもらわなくては選択もできないから、知ってもらうことが前提になる。

 人の出会いはそういうものだろう。たくさんの人の中から、惹かれ合う人がいる。それを運命と言う人もいるし、偶然と言う人もいる。ところで今晩は、久しぶりの誕生日会だ。偶然出会ったのに、もう何十年も続いている。そして明日は、長女のダンナのお姉さんによる『父への追悼の歌の会』が行われる。ブログは休むかも知れない。

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「五条川桜の宴」案内文を印刷する

2019年03月15日 17時50分21秒 | Weblog

  午前中は用事があって出来なかったので、昼食を取るとすぐにルーフバルコニーへ出て作業を始めた。休憩もせず、トイレにも行かず、ひたすらバラの植え替えに専念した。花粉が多いという予報どおり、しばらくすると目が痒くて涙が流れてくる。顔はタオルでしっかりガードしていたから、クシャミに襲われることは無かった。

 午後は大変暖かくて、作業していると汗ばんで来る。マンションの桜の蕾も少し膨らんできたような気がする。宴の呼びかけ人を務める先輩が早速、30日に行う「五条川桜の宴」の案内文の原稿を持って来た。達筆で読めない文字もあり、私流にアレンジして印刷した。そうか、もう「桜の宴」の時期が近いのか、時の流れが早く感じる。

 昨日の夕方、高校の新聞部からの友だちから電話があった。今は桑名に住んでいる同じ新聞部の友だちの「カミさんから連絡があった」と言う。桑名の友だちは今もなお、工場の送迎バスを運転している。その彼が昼休みに倒れ、救急車で病院に運ばれた。クモ膜下出血らしい。今は話しもできるし、手足も異常はないようだが、しばらく入院することになった。「すぐ退院できるならそれでいいし、見舞いが出来るなら行くか」という電話である。

 「慌てったってしょうがない」と言う。高校の時から物事を合理的に考えるタイプで、情緒が無いように見えるが、結構情熱的な面もあって、涙もろい人情家でもあった。高校時代の恋愛は成就しなかったが、大学でちゃんといい人を見つけていた。息子は早稲田大学へ進学し、演劇の道に進んでしまったが、「あいつはあいつの道を行けばいい」と寛容だ。

 「僕らもいつ何時、お迎えが来るか分からん歳になってしまったな」と言うと、「そんなものさ。死ぬまでは生きる」と大して気にしていない。面倒見がいいから、困った人がいればすぐ何とかしたくなる。とても死ぬことなど考える余裕はないだろう。

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最近のテレビドラマ

2019年03月14日 18時21分22秒 | Weblog

  「最近のテレビは面白くないねえ」と言う。そんなことを言うのはたいてい年寄りだ。NHKも民放もどのあたりの年齢層を狙って番組作りをしているのだろう。国民から受信料を徴収しているNHKには、本当に腹が立つ。ロクな番組も無いのに、総合・Eテレ・BS1・BSプレミアム・BS4K・BS8Kと6局も持っている。毎度言うが、受信料を使うためとしか思えない。

 NHK朝ドラは時計代わりで見ているが、誠に詰らない。その主演者が、今度は大河ドラマの主人公を演じるという。怒鳴り声ばかりで、演技に魅力を感じない。脇役の松坂慶子さんが居なければ、全く面白くないドラマだ。今、放映されているドラマで興味を抱いたのは、日曜日の『グッドワイフ』、火曜日の『後妻業』、木曜日の『ハケン占い師アタル』の3本で、いずれも民放が制作している。

 3本に共通するのは、人間とは何かを問うていることだろう。『グッドワイフ』も『後妻業』も、夫婦というか、男と女の難しさを描いている。連れ添って生きていきたい、愛し合って暮らしていきたい、しかし、現実は落とし穴ばかりがある。『ハケン占い師アタル』も人間の弱さに迫り、セリフが見事だ。どのドラマを観ても、人間が抱える宿命の深さにやり切れなくて、無理なことは分かっているのに、どこかに解決策はないのかと思ってしまう。

 聖書に、キリストたちがある家を訪れる場面がある(ルカ第10章38から42)。姉はキリストらを迎えるためにせわしく働いているが、妹はキリストの足元に座って話を聞いている。姉はキリストに、一緒になって姉を助けるように言ってくれと頼む。するとキリストは姉に向かって、「あなたは多くのことに思い煩って気を乱しています。必要なのはわずかなもの、というより1つでだけです。妹は良いものをえらんだのです」と答えている。

 何とも不公平な気がするが、キリストの言うことが正しいのであれば、人は自分の気持ちに忠実であればいいのかも知れない。

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期待される原稿が書けなかった

2019年03月13日 18時15分04秒 | Weblog

  天気は回復し、陽が差しているのに、風が強くてルーフバルコニーに出られない。バラの土の入れ替え作業を諦め、本を読むことにした。ケイタイを見ると、かつての部下で編集長を務める女性(とはいえ、部下はもうひとりしかいない)から、「原稿が集まらないから、賑やかしのつもりで気軽にお願いします」とメールが届いていた。私が地域新聞を始めて5年目の時、広告代理店を辞めて、ウチに入って来てくれた子だ。

 丁度、パソコンが事務の主流になってきた時で、彼女のおかげでいろんな企画の文書がすぐに出来上がり、新聞作りを超えた幅広い活動が出来るようになった。感性が私に似ていたこともあり、仕事が終わってもよくふたりで話した。話の多くは彼女の母親に対する愚痴だった。彼女の母親は教育ママで、長女の彼女に求めるものが多かったのだ。

 彼女にすれば、過干渉であり、鬱陶しい重圧であった。でも、彼女から「母がこう言った」という話を整理してみると、娘への期待以外の何物でもなかった。そう諭しても、なかなか彼女は納得できないから、私はただ、聞いてあげるしかなかった。子どもへの思いが強い人は、どうしても過剰になりやすい。子どもを一人前の人間と見ることが出来ないようで、大人になってもつい手を差し出してしまう。彼女の子育てを見た時、彼女も母親と同じことをしていた。

 豊田市で小6の女子児童がふたり、マンションから飛び降りて亡くなった。「いじめ」が原因らしいが、ハッキリしたことは分からない。女の子は片方が「死のう」と言えば、もう片方の子は「やめよう」と言えない。子どもに過干渉なくらいの母親の方が、こうした自殺を食い止めることが出来たのかも知れないが、思い込んだ子の目を覚まさせることは難しい。

 まだまだ、外は強風が吹き荒れている。私の気持ちはすっかり落ち込み、彼女からの依頼に答えられなくなっていた。どういう意図の企画なのだろう。何だか安直な特集のように見えて、期待される原稿が書けなかった。

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公共施設

2019年03月12日 17時32分39秒 | Weblog

  4月7日(日)に開く『メモリアルコンサート』のチラシを掲示してもらうために、公共施設に持って行った。随分と積極的に受け入れてくれたので、逆にビックリした。以前は、市が後援していないものはダメとか、いろいろ制約があった気がする。市民が主催する入場無料のもので、怪しいものでなければ、掲示を許可するようになった。

 私が議員になった時、「公共の福祉に反するもの」や「宗教活動や政治活動」には利用させないという規則が提示されたことがあった。公共施設だからこそ、何人に対しても開かれているべきで、宗教や政治を排除すべきではないと反対したが、保守系議員に数で負けた。制限を設けて、異なる意見や活動を排除する、行政の悪しき伝統が変わりつつあるのかも知れない。

 ところが、改修の終わった愛知県美術館は、使用制限が厳しくなっているようだ。入場者の安全を優先するのは当然だろうが、表現者の自由もまた確保されなくてはならない。管理者が使いよい会館で意味がない。美術団体が増えたこともあって、県美術館はなかなか使えないからか、管理者側からの制限を受け入れなくては展示の機会を失ってしまう。

 公共施設の管理者としては、より多くの人々に使いやすい施設にするよりも、何事も無く運営できる施設の方がよいのだろうが、私には本末転倒に思えてしまう。表現者はより多くの人々に、観てもらいたい聞いてもらいたいと必死で努力する。それが、管理者側に対する批判であったり、社会通念への反旗であったとしても、受け入れて欲しいと思う。

 人が変われば、街が変わる、社会が変わる。そうした変化のさきがけが芸術だと私は思う。3・11東北大震災の特集番組を見ながらそう思った。『メモリアルコンサート』は4月7日、北名古屋市文化勤労会館大ホール。開場は午後2時半、開演は午後3時。入場無料です。

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待つしかない

2019年03月11日 18時13分31秒 | Weblog

  雨は上がったが、冷たい風が強く吹いている。着実に春めいてきているのに、時々こんな荒れた日がくる。「春に三日の晴れ間なし」と、昔の人は観察している。四字熟語でも春がきたのに、肌寒い天候を「春寒料峭(しゅんかんりょうしょう)」というし、「三寒四温」はもっとポピュラーだ。寒い冬が過ぎ暖かな春の到来を東アジアの人々は待ちわびていた。

 農耕民族だから、「春種(う)えざれば秋実らず」と戒めた。春に種を植えれば、秋には実を結ぶが、何もしないでよい結果を得ようとしてはならないと教えた。けれど今は、物を大量生産し、それを買って暮らしているから、金儲けをしなければ生きていけない。金儲けの出来ない人は、社会から落ち零れていくしかない。

 人間はそういう社会をつくり上げてきた。だからだろうが、何か心温まる行事を大切にしている。誕生日祝いや結婚記念日の祝い、あるいは古い昔からの行事も、新たな行事も取り入れて、みんなで祝えば「ハッピー」と、声をあげて喜んだりしている。バレンタインが定着したように、ホワイトデーのお返しも盛んだ。

 イタリアでカンツォーネを歌ってくれた老人が言ったように、「人生は楽しむためにある」のだ。人々は楽しむために働き、富を蓄えた人はもっと富を増やすことに喜びを見出す。カルロス・ゴーンさんがどういう人物か知らないが、富裕層になった人はさらに富を蓄えることに熱中していく。これは人間社会の宿命なのか、それとも発展途中の瘤のようなものなのか。

 春休みに孫娘たちに会えるかと思っていたら、どうやら元号が変わる10連休も通り越して夏休みになりそうだ。社会人になった孫娘は生活が一変しそうだし、小3と4歳の孫娘の成長は著しいから、早く会いたいが、それぞれの都合もあり、ジジイは待つしかない。

 

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市民管弦楽団の演奏会

2019年03月10日 19時14分23秒 | Weblog

  演奏が終わったら、涙が流れてきた。演奏した曲がよかったし、何よりも演奏者の腕が確実に上がっていた。どこへ出しても恥ずかしくない立派な楽団に成長していた。創立当時の楽団員は何人いるのだろう。今日の出演者は賛助会員を含めて71人だったが、私が知る楽団員は僅かしかいない。その人たちも私のことは覚えていないだろうと勝手に思っていたが、会ってみたら苗字で呼んでくれた。

 今日の演奏曲は、グリーグの『ペール・ギュント』とショスタコービッチの『交響曲第5番ニ短調Op・47』。グリーグはノルウェーの、そしてショスタコービッチはロシアの作曲家だからか、緩急の表現が大きく、演奏者としては大変な苦労があっただろう。ショスタコービッチは革命ロシア時代の作曲家で、社会主義リアリズムという観念論から批判を受けたこともあり、体制に追随する作曲家と批判されたこともあった。

 『ペール・ギュント』は劇作家イプセンの戯曲のための音楽なので、ストーリーを追いながら聞けばその展開もよく分かる。『交響曲第5番』はそれぞれの楽器が独立して演奏する、それをまた別の楽器が追いかける、目が放せないというか、どんどん引き込まれてしまった。演奏が終わって涙が流れたのは、達成感だったのかも知れない。名古屋ウィメンズマラソンで、途中あんなに苦しそうだった岩出玲亜さんが最後に日本人のトップで入ってきた時も、自分が走った訳でもないのに涙が流れた。

 昨日の「スイスワインの会」はとても楽しかった。中心となってやってくれる誰かが居なければ、どんなに良いことでも続いてはいかない。何かが確実に実を結びつつある、それを実感する時、思わず涙が流れるのだろう。私は頑張っている人を応援するしかできないが、喜びを共有したいと思っている。

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