風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

箱根駅伝・続

2011-01-06 00:28:50 | スポーツ・芸能好き
 Wikipediaで箱根駅伝を調べていると、1920年の第1回大会開催に尽力したとして、金栗四三氏の名前が出て来ました。懐かしい名前です。この功績を讃え、2004年から、箱根駅伝の最優秀選手に「金栗四三杯」が贈呈されているそうです。今年は、花の2区で17人抜きを演じて区間賞を取った村澤選手に授与され、山登り区間で圧倒的強さを誇った柏原選手は三年連続受賞を逃しました。
 さて、その金栗四三氏は、日本の「マラソンの父」と称され、1912年のストックホルム・オリンピックでのエピソードが有名です。前年に開催されたマラソン予選会で、「マラソン足袋」を履いて当時の世界記録を27分も縮める大記録(2時間32分45秒)を打ち出したため、日本人初のオリンピック選手として大いに期待されましたが、当日、レース途中で日射病にかかって意識を失い、不覚にも気が付いたのは翌日の朝で、マラソン中に消えた日本人として、地元・スウェーデンでは長く語り草となりました。結局、棄権の意思が伝えられず、記録上、競技中に失踪して行方不明の扱いのままだったことに気が付いたスウェーデンのオリンピック委員会は、1967年、ストックホルム・オリンピック開催55周年記念式典に金栗氏を招待し、ゴール・テープを切らせるという粋な計らいを見せます。その時のアナウンスがふるっていて、「日本の金栗、ただいまゴール・イン。タイムは54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルム・オリンピック大会の全日程を終了する」と。またゴール後の金栗氏のコメントもふるっていて、「長い道のりでした。この間に孫が5人できました・・・」。
 私にとって懐かしいのは、高校時代に愛用したマラソン・シューズの名前が「カナグリ」だったからです。
 1902年頃、日本にペストが流行したため、マラソンを裸足で走ることが禁止されました。そこで履物として人気を集めたのが、スポーツのメッカと言われた東京高等師範学校(現・筑波大学)の向かいにあった足袋屋「ハリマヤ」の座敷足袋でした。そこの学生だった金栗四三氏と「ハリマヤ」は、畳や廊下を摺り足で歩くための座敷足袋を、当時はまだアスファルト舗装されていない土や砂利の長距離の道を走るに耐える「マラソン足袋」に強化するための改良を重ね、「カナグリ・タビ」を完成させます。いわば日本のマラソン・シューズのルーツです。1936年のベルリン・オリンピックに日本人として出場してマラソン金メダルを獲得した孫基禎選手も、足袋を履いて走りました。戦後、最後の「マラソン足袋」ランナーといわれた田中茂樹選手が1951年のボストン・マラソンに優勝した時、ゴール直後に、現地の新聞記者が血相を変えて「靴を脱げ」と喚いたので、不得要領のまま靴を脱いで見せたところ、記者たちが皆ホットするので、何故かと聞いたら、なんと彼らは日本人の足の指が2本しかないのではないかと疑っていたとか・・・いやはや。
 勿論、私が高校時代に愛用した「カナグリ」という名のハリマヤのマラソン・シューズは、それから数世代も後のもので、そうは言っても、現在では当たり前になったクッション性が高いエアと名のつくものに比べると、地下足袋に毛が生えた程度のチャチなシロモノでしたが、足が吸い付くようなフィット感と走りやすさは、当時の陸上・長距離選手の誰もが絶賛したものです。ナイキやリーボックやニューバランスなど影も形も無く、ミズノやアシックスの靴すらお粗末この上なかった当時にあって、ハリマヤ・シューズはオニツカ・タイガーと並び、我々陸上選手の憧れの的でした。
 技術革新がスポーツ記録の更新を支えるのは、今も昔も変わりません。そしてハリマヤが店をたたんで20年近くになるようですが、技術革新の担い手の栄枯盛衰もまた、今も昔も変わりません。

参考: JOCサイト(オリンピック・メモリアル・グッズ File No.13 世界を制したマラソン足袋)
    Wikipedia(箱根駅伝、金栗四三)
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