まったく、この国を、言いようのない閉塞感が覆っています。世界の諸外国と比べて見れば、客観的な諸条件は決して悪くないのに、何故か陰鬱な空気が充ち満ちて、日本人にいまひとつ元気がありません。手持ちのお金がないわけではないのに、日本経済の先行きや日本の財政状況から、老後の生活とりわけ社会保障に対して漠然と感じる不安感。では今こそ何か仕掛ければ良いのですが、どうせ手を打ってもゼロ・サムの中で、右のポケットから左のポケットに移るだけで、何をやっても変わらないと諦める無力感。かつて活力に充ち満ちた社会で、右肩上がりに、働くほどに給料も増え、社会が豊かになるのが目に見えて、忙しくても遣り甲斐があったのに、高度に発達した組織社会の中で、社会に勢いが無くなった今、自分がやることの価値が見えにくく、歯車のように働くことに達成感がなく、自分が出来ることは高が知れていると諦めてしまう喪失感。結果として、ある程度の豊かさを達成して、物的にはそれなりに満足しながら、精神的にはいまひとつ満たされない焦燥感。
実際問題として、これほど(例えば一人当たりGDPなど)豊かになった国が、人口が増えず、むしろ少子高齢化で人口が減少していく中で、更に高度成長を夢見るのは、ドンキホーテの無謀と言うべきで現実的ではありません。しかし国境のハードルが限りなく低くなってグローバルに影響し合う社会にいて、ただ手を拱いていては、失われた20年から這い上がるきっかけがつかめないまま、さらに地盤沈下を続けるだけです。
政治が悪い、と言うのは簡単です。私たちが投票行為によって選び(全体の半分しか投票していませんが)、私たちの負託を受けて(全体の半分のそのまた半分くらいしか支持していないという意味で、負託もその程度の低レベルですが)代表者が行うことに対して、何か言おうものなら天に唾するようなものです。
政治主導という言葉が悪い。きっとそうなのでしょう。そう言った途端、大多数の国民にとって、他人事になってしまいます。ただでさえまつりごとをつかさどるのは(なんと平仮名だらけで読みにくいことでしょう!)お上と呼んで、個人的な事情に引き篭もりがちな日本人の性です。そして環境変化に対応できなかっただらしない自民党に代わって、およそ政権担当能力がないにも係らず舞台に引き摺り上げられた民主党は、もがきあがいて空回りして、挙句は選挙対策と党内抗争に明け暮れる茶番を演じる始末で、益々、民心は離れていきます。
政治主導ではなくて、国民主導、民の活力を引き出すキャッチフレーズが重要です。国家も、企業社会と同じで、変革を起こすには、社長(首相または内閣)が叫ぶだけでは、あるいは経営層(政治や行政機構)が働くだけでは、うまく行くものではあり得ません。従業員(国民)の一人ひとりが危機感をもち、回復させるのは、他人事ではなく、一人ひとりが創造していく作業なのだということを自覚させることが必要です。おそらく国民一人ひとりは、何かやる余裕があり、やる心の用意もあるのに、なすすべもなく、ただ日々の生活に埋没しているだけではないでしょうか。今では抵抗勢力によってすっかり色褪せさせられてしまった小泉改革は、いろいろ功罪はあったにしても、そして時代の追い風はあったとしても、当座の日本が進むべき方向に対するメッセージは明確で、少なくとも国民はその範囲で熱狂し、改革の痛みに耐える覚悟が出来ていました。あの勢いを続けられなかったところに、自民党の凋落があり、その先に民主党が十分な用意もなく桧舞台に躍り出て醜態を曝け出し、その結果として、国民の失望が広がっています。
今は、日本が高度な中央集権体制から地方分権、もっと言うと地域コミュニティへの参加を通して、国民一人ひとりが寄る辺を確認し、自ら腕を振るえる社会に変革するための臨界点に向けて、エネルギーを貯めている時期なのだろうと、善意に解釈しています。果たして、臨界点を超えるのは、いつのことか。
実際問題として、これほど(例えば一人当たりGDPなど)豊かになった国が、人口が増えず、むしろ少子高齢化で人口が減少していく中で、更に高度成長を夢見るのは、ドンキホーテの無謀と言うべきで現実的ではありません。しかし国境のハードルが限りなく低くなってグローバルに影響し合う社会にいて、ただ手を拱いていては、失われた20年から這い上がるきっかけがつかめないまま、さらに地盤沈下を続けるだけです。
政治が悪い、と言うのは簡単です。私たちが投票行為によって選び(全体の半分しか投票していませんが)、私たちの負託を受けて(全体の半分のそのまた半分くらいしか支持していないという意味で、負託もその程度の低レベルですが)代表者が行うことに対して、何か言おうものなら天に唾するようなものです。
政治主導という言葉が悪い。きっとそうなのでしょう。そう言った途端、大多数の国民にとって、他人事になってしまいます。ただでさえまつりごとをつかさどるのは(なんと平仮名だらけで読みにくいことでしょう!)お上と呼んで、個人的な事情に引き篭もりがちな日本人の性です。そして環境変化に対応できなかっただらしない自民党に代わって、およそ政権担当能力がないにも係らず舞台に引き摺り上げられた民主党は、もがきあがいて空回りして、挙句は選挙対策と党内抗争に明け暮れる茶番を演じる始末で、益々、民心は離れていきます。
政治主導ではなくて、国民主導、民の活力を引き出すキャッチフレーズが重要です。国家も、企業社会と同じで、変革を起こすには、社長(首相または内閣)が叫ぶだけでは、あるいは経営層(政治や行政機構)が働くだけでは、うまく行くものではあり得ません。従業員(国民)の一人ひとりが危機感をもち、回復させるのは、他人事ではなく、一人ひとりが創造していく作業なのだということを自覚させることが必要です。おそらく国民一人ひとりは、何かやる余裕があり、やる心の用意もあるのに、なすすべもなく、ただ日々の生活に埋没しているだけではないでしょうか。今では抵抗勢力によってすっかり色褪せさせられてしまった小泉改革は、いろいろ功罪はあったにしても、そして時代の追い風はあったとしても、当座の日本が進むべき方向に対するメッセージは明確で、少なくとも国民はその範囲で熱狂し、改革の痛みに耐える覚悟が出来ていました。あの勢いを続けられなかったところに、自民党の凋落があり、その先に民主党が十分な用意もなく桧舞台に躍り出て醜態を曝け出し、その結果として、国民の失望が広がっています。
今は、日本が高度な中央集権体制から地方分権、もっと言うと地域コミュニティへの参加を通して、国民一人ひとりが寄る辺を確認し、自ら腕を振るえる社会に変革するための臨界点に向けて、エネルギーを貯めている時期なのだろうと、善意に解釈しています。果たして、臨界点を超えるのは、いつのことか。