風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

追悼・西城秀樹

2018-05-20 13:27:40 | 日々の生活
 西城秀樹さんが、16日に急性心不全のため亡くなった。63歳という若さだった。自分が子供の頃のアイドル(当時はスターと呼ばれた)とは、そんなに年が離れているわけではないのに鬼籍に入るとは、もうそんな年なのかと我ながらショックだ。「ちびまる子ちゃん」のお姉ちゃんが「ヒデキ」の大ファンで、アジア域内のアニメ・ファンの間にも衝撃が広がったらしい(以下、敬称略)。
 私はどちらかと言うと野口五郎の歌を子守唄に(!?)育ったので、当時は「新・御三家」の一人として見ていただけだったが、カラオケでは(演歌出身で歌唱力勝負のせいかちょっと暗い歌が多い)野口五郎より(明るくてノリが良い)郷ひろみや(激しくてノリが良い)西城秀樹を歌うことが多くて、後年になってからお世話になった。それでも、TVゲームや携帯やスマホもない1970年代前半のエンターテイメントとしての歌謡界の黄金時代を支えた一人であり、その印象は鮮烈だ。1972年3月に歌手デビューした当時を調べてみると、前年の71年には4月に小柳ルミ子、5月に野口五郎、6月に南沙織、10月に天地真理が歌手デビューし、同年には6月に麻丘めぐみ、7月に森昌子、8月に郷ひろみ、11月にアグネス・チャンが、翌73年には2月に桜田淳子、4月に浅田美代子、5月に山口百恵・・・と、挙げて行けばキリがないが、私の世代には懐かしい錚々たる「昭和の大スター」である。高度経済成長が1973年の石油ショックを機に曲がり角を迎える直前、商品経済が成熟期を迎えた時代が生んだ(商品としての)ヒーロー・ヒロインたちである。因みに「新・御三家」の西城秀樹、郷ひろみ、野口五郎は同級生(1955~56年生まれ)だし、「花の中三トリオ」の森昌子、桜田淳子、山口百恵も同級生(1958~59年生まれ)だが、その年代が秀でていたのではなく、飽くまで時代が生んだ風景なのだろう。
 Wikipediaを覗いてみると、ジャズ・ギターが趣味だった父親の影響で幼少期から洋楽に親しみ、ジャズ・スクールに通ってドラムを勉強し、小学3年の時、最初にファンになったのはジェフ・ベックであり、小学5年生の時、兄とエレキバンドを結成して小学生ドラマーとして活動するというマセ・ガキだったようだ。彼の独特のシャウト唱法は後のJ-ROCKアーティストたちにも影響を与えたと言われるのはそのためだろう。日本人のソロ歌手として野球場や日本武道館で公演を行ったのも、スタンド・マイクを使ったパフォーマンスやコンサートでペンライトを定着させたのも、西城秀樹が最初で、今の「アイドル」が親しみやすいばかりか安っぽくなってしまったのとは対照的に、当時の「スター」という手の届かない存在に相応しい派手な演出だった(今では当たり前になってしまったが)。伝説の歌番組「ザ・ベストテン」で、計算上の週間得点の最高9999点を叩き出したのは、後にも先にも「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」だけ(1979年4月5日および12日)で、彼を取り巻く世の中の高揚を感じさせるエピソードである。
 つとに好青年ぶりは知られていたが、2003年と2011年に脳梗塞を発症し、右半身に麻痺が残る状態でも、強い意志をもってリハビリを続けながら最近までステージに立ち続けて、気がついたのは「普通の暮らしの素晴らしさ」だったといい、「水が冷たくて気持ちいい、食べるものがおいしいと思えることが嬉しいんですよ」という素朴な言葉を聞くと、胸が詰まる。私も鹿児島のど田舎で元気一杯だったのに3歳のときに公害が酷い大阪に引っ越すと体調を崩して寝込むことが多くなって戸外で遊べないときに子供心に感じていたことと重なって、今の自堕落な暮らしをふと顧みるだに、つい厳粛な気持ちになる。
 昭和の大スターが流れ星となって堕ちた・・・ご冥福をお祈りし、合掌。
コメント
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