風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

憲法記念日

2018-05-06 13:38:07 | 時事放談
 野球にかまけていて遅くなってしまったが・・・5月3日の憲法記念日は、政局がかかる次第で、昨年とはうって変って、安倍政権(敢えて自民党とは言わない)による改憲の勢いが削がれてしまったようだ。しかし因果は恐らく逆で、昨年のこの日の安倍演説は、9条3項に代表されるように、改憲への心理的障壁を低くするために歩み寄った妥協の産物として、護憲派のお尻に火を点け、左派系メディアと(期せずして?)足並み揃えた安倍独裁キャンペーンを通して世論を惑わせ(所謂印象操作を狙ったものだが、ヒトラーに擬したポスターもあったのは安倍憎しと言えども酷過ぎる)、モリ・カケ、ニッポー、セクハラの諸問題で国会審議をも空転させ、何が何でも安倍政権の改憲を阻止するという一点に向かって突き進んでいるようだ。政治日程上、来年の改元や2020オリパラを考慮に入れると、そろそろ時間切れになりそうで、護憲派の執念は成就するかも知れない。
 この日の護憲派集会を産経電子版が珍しく詳報している。日本のメディアの中で産経は言わずと知れた保守派で、政権寄りとまでは言わないまでも、詳報と言ってもその切り取り方には偏りがあるであろうことは覚悟しつつ、連休の戯れに読んで見た。まず弁士が凄い。落合恵子(作家)、竹信三恵子(元・朝日新聞記者)、清末愛砂(室蘭工業大准教授)、山内敏弘(一橋大名誉教授)、枝野幸男(立憲民主党代表)、大塚耕平(民進党代表)、志位和夫(共産党委員長)、又市征治(社民党党首)の8氏で、いずれもこってり濃い方ばかり、しかし弁舌は実に滑らかである。
 しかし、サラリーマンをやっていると、彼ら彼女らのレトリック巧みな、つまりは空理空論だけで腹一杯になることには空しさを覚える。サラリーマンは(一応、これでも)現実と戦っているので、先ずは現状認識(今でしょ、の“今” 笑)がなければ話にならないのだが、彼らの現実認識は73年前で止まっているのではないか(正確に言うと東京裁判による裁定後、あるいはGHQ占領支配後のあたりだろうか)と思う。実は戦後間もなくの頃は、社会党代議士ですら、非武装中立で日本は大丈夫か?と問うまっとうな現実認識があったものだが、ときの吉田・元総理が軽武装・経済重視の所謂吉田ドクトリンという大きな政治判断で押し通したのだった。このときの吉田・元総理の苦渋の決断を慮るべきだと思うが、その後の日本は、豊かになればなるほど、そして冷戦という極めて特異な国際情勢の中で、実態として身動きが取れない緊張状態(熱戦に至らないから冷戦と呼ぶのだが、それを護憲派の人たちは我が国が戦争に巻き込まれなかったから平和と定義する)に晒されている内に、国防というものから遠ざかってしまった。国際政治の教科書を読めば、先ず、現実主義と理想主義の葛藤が出てくるように、世の中はその葛藤の中に解を見出してこそ意味があるものだが、護憲派の主張を聞いていると、どちらかに偏り過ぎるのはよろしくないなあ・・・と溜息混じりに実感するのである。そして、現行憲法にどうしてここまで拘るのだろうかと不思議に思う。これはもう情緒的な反応、端的に(改憲派あるいは戦前の帝国ニッポン?に対する)怨念でしかないのではないだろうか(苦笑)。
 それでは現行憲法の何が問題なのだろうか。
 現行憲法は、学生時代で言えば一夜漬けで作られたような即席のシロモノだが、当時の時代背景、言わば空気を一杯吸って(という意味では安直とも言える)、よく出来ており、理念としては大変素晴らしい。ここで“理念として”と断ったのは、“現実として”憲法が依って立つ前提、足元が、今なお実現していないところが悩ましいからである。このブログでも何度か書いてきたように、前文に言う「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のは“理念として”結構なことだが、“現実として”諸国民(とりわけ日本を取り巻く東アジアの国々)はそれほど平和的ではない(いや、護憲派はこれには反論するかも知れないが)。そして何よりその理念と現実の辻褄合わせのために、とりわけ9条について「憲法解釈」なるものが跋扈し、左右の硬直的で不毛な議論の中で、国としての身動き(選択肢)が制約されるような窮屈な状況に陥っていることこそが問題なのである。もし「憲法解釈」を、憲法の枠内で(この枠内であることが大事)の「時の政府の政策論」に過ぎないとしてゼロ・クリア(あるいは適宜修正)できるなら、そして虚心坦懐に(そのときには、最近、篠田英朗さんが主張されているように国際法に沿って)読み直すことが認められるなら、敢えて憲法改正に及ぶ必要はないのではないかとさえ思う。しかし世の中、とりわけ政治状況はここまで来てしまった以上、やり直すことは難しい。
 9条だけでなく、また最近、自民党が発表した改憲4項目(自衛隊、緊急事態、参院選「合区」解消、教育の充実)だけでもなく、憲法の全体をもう一度よく読んで勉強しようと呼びかける人がいるが、憲法を読むだけでは恐らく足りない。憲法は、国家の統治体制の基礎、言わば(護憲派の方が嫌うかもしれないが他に適切な言葉がないので使用すると)“国体”を定める、国家の根本法だ。良くも悪くも現行憲法ができた当時の情緒にまみれ、一種、古色蒼然とした趣のある現行憲法を見直すとすれば、当時の改憲のきっかけとなった先の大戦を総括することを含めて、日本の来し方、行く末を洞察することが不可欠だと思うが、そんな悠長な、過去73年の間に出来なかったことを言っていたら、今後、73年間も改憲には手をつけられないかも知れない。どちらが大事かと言って、改憲よりも歴史を総括することの方が余程大事だと思うが、先の護憲派集会は、(産経電子版の皮肉交じりの言い方によると)聴衆の「大半は高齢者が占めていた」状況から察すれば、それぞれ個別の経験や思い入れに囚われて、73年経ってなお歴史として冷静かつ客観的に見詰めるまでには至っていないのかと嘆息してしまう。
 何はともあれ71歳を迎えてなおカクシャクとした現行憲法の偉丈夫ぶり(これは男性を形容する言葉か?)とたおやかさ(これは女性を形容する・・・などと区別するようなご時勢ではないのかも)を寿ぎたい。私のような偏屈ジジイには、護憲派の主張が、余りにナイーブで中国や南北朝鮮を利するばかりなのが、どうにも釈然としない(笑、そのために、国際社会やアジアの地域秩序における日本の地位を貶めんとする中国の三戦を疑っている まあ日本だけじゃないけどね 苦笑)。憲法記念日には、トランプ大統領のようにAmerica Firstと露骨に叫ぶのは日本人にはハシタナイと思われるにしても、歴史認識をはじめとして、もう少し我が国を第一に、そのありようを考えたいものだと思うのだが、それでも護憲派はそれが日本のためだと主張するのだろう。いやはや、欧米社会も分断しているが、日本の分断もなかなか深刻だ。
コメント
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