風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

日本と、フランスと

2017-05-07 14:39:10 | 時事放談
 5月3日の憲法記念日は、1日の「メーデー」を避け、5日の「端午の節句」を避けて、選ばれたという、冗談のような本当の話を知って驚いた。おまけに、その日に施行するために公布は前年11月3日になり、「明治節」にあたるから、相応しいものかどうか、司令部(GHQ)の意向を気にしたともいう。当時の内閣法制局長官・入江俊郎氏の話がWikipediaに出ている。
 それはともかく、この日は護憲派・改憲派それぞれ各地で集会を開き、主張を繰り返して、結束を再確認していたようだ。とりわけ今年は憲法施行から70年の節目にあって、思い入れも一入だったことだろう。前回のブログで取り上げた香港(そして台湾)は、危機に瀕する民主主義を守ろうとする若々しさにある種の羨ましさを覚えるのだが、ここ日本は、大いなる挫折があったとはいえ、既に100年以上の民主主義の歴史がある(その挫折も、周回遅れの帝国主義という歴史的な要素が強いと思うのだが、護憲派はそうではなく、日本民族の中に悪しき要素を見るようだが)。それなりに成熟している証左なのだろうが、私には二重の意味でちょっと憂鬱だった。
 一つは、護憲派の主張には相も変らずリアリティが感じられず、ファンタジックなままであることだ。平和主義は揺るがせに出来ない大事なものであるのは、護憲派・改憲派に共通するものと思うが、それで彼ら護憲派が非難する「戦争が出来る国」になることが何故いけないのか、いまだに理解できない。どうも、備えをすること=戦争をすること、と短絡視して、反戦意識(感情)に訴える戦術のようだが、歴史的にもまた現代的にも、その間には高度な外交技術と長い葛藤があることを理解してあげた方が、そこに携わった(携わっている)方々に対してフェアというものだと思うが如何だろう。その意味で、彼らはまさに進歩主義者で、今の自分たちはお利口さんで、過去の日本人は劣っていたと見る不遜さが、私には感覚的に受け容れられないのだ。その不遜さは、何故か同時代にも向けられていて、国民の多数が選んだはずの首相のことを呼び捨てにするのも気に障る。東京・有明防災公園では特別ゲストとして韓国の市民活動家を呼んで演説させたのも気に障る。「朴槿恵を権力の座から引きずり下ろし、主権者として、経験したことのないプライドを回復することができた」、「誰が国の主人なのか、はっきりしないといけない。日本でも間違った歴史を変える市民の行動が始まっている。皆さんの行動を応援している」と言ったらしいが、歴史教育に実証主義が抜け落ちて単なるファンタジーだと揶揄される国に、(多分に実証主義的な)私たちの歴史のことをとやかく言われる筋合いはない、また恨をはじめ国民感情で動いて厳密な意味で三権分立も機能しない国に、今さら「誰が国の主人か」などと言われるとは、片腹痛い。護憲派は、現実を読めないだけでなく、空気も読めないようだ。他方、改憲派のアイドルである安倍首相は、石破さんをして「これまでにない主張」と訝しめたように、公明党の「加憲」へと擦り寄ったようで、一貫性がない。安保法制でも公明党に擦り寄り、集団的自衛権を極めて限定的に偏してしまったことを忘れたのだろうか。何としても自らの政権下で、との悲願に焦りがあるのは理解する。その通りで、日本の時代精神なるもの、あるいは国民感情なるものは、安倍首相にやや追い風に見えるとは言え、民進党をはじめとする野党への反対票にも助けられて、それほど確固たるものではないからだ。それならなおのこと、安倍首相のあからさまな思いは、恐らくまだ通用しないにしても、その信念を語るについて、もう少し意を尽くしてはどうかと思うが、如何だろうか。
 もう一つは、護憲派・改憲派のいずれにも明示的に与したくない私のような軟弱な人間にとって、日本の社会が分断したままであるのは、相変わらずではあるが、ある意味で驚きだ。憲法改正問題に限らず、原発、安保法制、沖縄もそうだ。昨年、英国や米国で、そうした分断の隙をついて、想定外の投票結果が生まれた。日本は、英国や米国のような移民国家でもないし、それほど格差社会でもない(と思う)。敢えて言えば、先の戦争を総括していないツケを、今なお引き摺っているということだろうか。
 折しも今日、フランス大統領選の二回目の投票が行われる。ニューズウィーク日本版5・2/9号は、「国際情勢10大リスク」を特集して、次のように総括した。「グローバリズムの旗手だった欧米がグローバリズムを捨て、代わりに台頭したポピュリズムがリーダーなき「Gゼロの世界」を創りだす――。国際社会の空白が生むリスクは北朝鮮だけではない。われわれが生きる現在の世界は、冷戦期よりずっと危険なのかも知れない。」 さて、この問題提起に対し、フランス国民はどんな結論を下すのだろうか。東洋経済(Web版)に、フランス人イラストレーターの面白いコラムが載っていた。フランスと日本と、随分、離れているようでいて、実に親しい感覚をもって、非常に興味深く読んだので、長くなってしまうが、無料記事でもあり、大胆にも以下に全文を転載する。


(引用)

フランス人が大統領選前に「焦り始めた」ワケ
フェイスブックには悲鳴のような投稿が…
レティシヤ・ブセイユ :ライター、イラストレーター
2017年5月6日

 4月24日の朝。前日の夜にワインを飲んでもいないのに、二日酔いを思わせる頭痛で目が覚めた。曇った空もさらなる苦痛を与える。そう、私の国フランスでは、前日、大統領選挙の第1回の投票日で、その夜結果が発表された。その結果を見た瞬間、私は大絶望し、今すぐフランスを出たいという感情に襲われた。
 ご存じのように、1回目の選挙で選ばれたのは、エマニュエル・マクロン氏とマリーヌ・ルペン氏だ。ルペン氏といえば、2002年の選挙あたりから頭角を現し始め、支持率を伸ばしている極右政党「国民戦線」の代表(現在は党首を退いている)。一方、マクロン氏は、2年前に突如として政治の表舞台に現れ、経済産業デジタル相を務めた後、瞬く間に注目を集めた、中道政治運動「前進!」所属の若手政治家だ。

ハッキリ言ってろくな候補者がいない
 ぶっちゃけた話、今回の選挙までは、私は政治とあまり縁がなかった。18世紀に起きたフランス革命のおかげで、現在のフランスは、一般人でも投票ができる自由の国だ。この国で生まれ育ったからには、投票の大切さを理解しているし、選挙を軽視するのはとても駄目なことだと、子どもの頃から親や先生からたたき込まれて育った。
 だから、フランスの標語の「Liberté(リベルテ), Égalité(エガリテ), Fraternité(フラテルニテ)(自由、平等、友愛)」 という旗印のもと、「直接選挙という神様を奉るべし」ということは私の無意識になんとなく漂ってる。幼い頃、おじいちゃんたちがたまに家にご飯を食べに来ると、社会の暗い話題や、文句まみれの政治議論が交わされていた。そういう環境で育ってきたが、大人になって「政治の世界はややこしくて、勉強するのが面倒だな」と感じていた一方、十分に関心を持たないことに対して罪悪感もあった。
 しかし、今回の選挙は別だ。「真剣になるべし」と感じたのは、どうやら自分だけではない。同世代の30代のフランス人と話しても、いつもよりも、なんとなく関心が高いと感じる。
 長く続く不景気や、今のフランソワ・オランド大統領の人気のなさのせいなのか、はたまた、ネット上にいろいろな候補者の情報が出回っているせいなのか、とにかく「今回こそ何かを変えなければ」というのが周りの人たちの口癖となっていた。アメリカのドナルド・トランプ大統領の勝利にあぜんとしたフランス人も多く、「やっぱり、どうあっても最悪な結果だけは避けたい」という精神で投票した人がかなりいたようだ。
 とはいえ、第1回目の結果が発表されるまでは、私の周りでは、誰に投票するかを明かす人は、あまりいなかった。その理由はなんだろうか。
 やはり「ろくな候補者がいない」という一言に尽きる。たとえば、有力な候補者だった、フランソワ・フィヨン氏の不正給与疑惑。不思議なことに選挙の直前にスキャンダルが発覚した。そのせいで政治家への信頼がダダ下がりしたこと。一言で言えば、選挙前から混乱した雰囲気が漂っていた。
 そのせいか、今回の結果が発表された後、二日酔いのような不快感を募らせたのは私だけではなかったようだ。Facebookなどを開けば、友人たちの「悲鳴の嵐」が吹き荒れている。勝ち残った2人の候補者はフランス人の半数の支持を得ているはずなのに、不思議な光景である。
 実は、フランスでは2002年にも、今回と同じようなことが起こった。2回目の決戦投票で、マリーヌ・ルペン氏の父、極右のジャン=マリー・ル・ペンとジャック・シラク氏の対戦になった。そのとき、極右が選ばれるのを恐れたフランス国民の大半がパニックになって、全国で反乱が起き、最終的にシラク氏が圧倒的な勝利を収めたのだ。

多くが「仕方なく」マクロンに投票した
 デジャビュな気持ちはそのエピソードで終わらない。
 2012年のニコラ・サルコジ氏vs.オランド氏の対戦。過激な政治手法からかなり国民から不評だったサルコジを倒すために、私を含め、多くのフランス人が、仕方なく、オランド氏に投票した。大統領になってまもなく、オランド氏には「フランビー(Flamby)」というあだ名がつけられた。フランビーとは、フランスで有名なプリンのメーカーで、日本でいうプッチンプリンのような商品だ。まるでプリンのように、カリスマのない弱いキャラクターという意味があった。それほど、最初から評判がいま一つだった。
 今、この「仕方なく」選んだことが問題だったと痛感している。最近フランスでは、政治信念より、恐怖が動機で投票することが多くなっている。意見が合う候補者ではなく、ある候補者が嫌だから、戦略的に好きでもない人を選んでしまう。
 たとえば、知人はフィヨン氏が嫌いだった。なぜなら、フィヨン氏がフランス人の会社員の定年を引き上げようとしたからだ。もうすぐ定年だったその知人にとってフィヨン氏は嫌な候補者だった。その結果、マクロン氏を選んだ。「マクロンのどこがいいの?」と聞いたら、「まー、別に好きでもないが、フィヨンが落選してホッとしたよ!」と話していた。
 別の友人も「とにかく1回目でフィヨン対ルペンになっていたら最悪だから、マクロンにした。ギリギリまで悩んだけど、マクロンは失業手当の期間を長くすると言ってるから、まあいいんじゃない」と語る。
 マクロンを選んだ人の中には、彼の若さに希望を持った人や、左翼でも右翼でもない中立的な姿勢に安心した人もいたようだ。そして、左翼を代表していた候補者のブノワ・アモン氏の支持者の何割かが、世論調査の悪い数字を見て不安になり、選挙直前にマクロンに乗り換えたそうだ。とにかく、マクロンは「まだマシ」とたくさんの支持を得た。
 今回のフランス大統領選挙には、11人も立候補していた。しかし、マスコミが集中的に取り上げるのはせいぜい4、5人。私は考え方が合う「小さい候補者」(フランスのマスコミは、候補者を「小さい」「大きい」などの言葉を使って表現する)の1人に投票したが、あえなく落選した。マスコミの「小さい」「大きい」という呼び方はには、アンフェアさを感じずにはいられない。テレビ露出や資金力の差が結果につながることを考えると、やるせない気持ちになる。
 今回の結果が気に食わず、選挙制度自体に怒っているフランス人は多い。極端に言えば、国民が大統領を選べるというのは幻想で、マスコミや調査会社が日々発表する世論調査に完全に操られているということへの批判も上がっている。

誰がルペン氏に投票したのか?
 同じフランス人の半数が、自分と考え方を共有しないという寂しい現実と、マスコミの陰謀の悪夢によって、視覚がぼやけて、頭がガンガン痛い。神様だと思ってた、フランスの投票制度が完璧ではなかったのかもしれない。
 では、これからフランス人としてどうするべきか。今回、上がり続ける失業率や、最近のテロ事件にうまいこと便乗するルペン氏が20%以上の国民にアピールできた。しかし、周りの知り合いに聞いても、ルペン氏を選んだ人はいない。
 では、どんな人がルペン氏を選んだのか?
 統計データを見るかぎり、どうやら貧困層や工場労働者や、地方出身者、(国境に近い)南仏や東北部出身の人が多い。また、ブルジョアで保守的な人がメインかと思いきや、支持者の中にはフランスをひっくり返したいと願う若者もいる。さらに、何世代にもわたる「純血」のフランス人がほとんどかと思いきや、実は親が移民だった人が、フランス人としてのアイデンティティを強調したいがために多く投票しているそうだ。
 とにかく、「ルペンは絶対ありえない!」という私や仲間たちと、「ルペンこそ救世主だ!」と思ってる人の間にどれだけ深い溝があるか想像するだけで、正直ぞっとする。実は、私が暮らしている、リヨン郊外の小さな村では、なんとルペン氏が1位で、支持率は30%を超えたが、周りには彼女を選んだ人はいない、と思う。
 しかし、同じパン屋さんでバゲットを買ったり、幼稚園であいさつしたりする人たちと、ビールを囲んで、腹を割って政治の議論をしたことがないから、彼らの本心はわからない。そう考えると、同じ村に住んでいるのにまるで別々の世界にいるようだ。新聞にも書かれているが、フランスは分断されてしまったかのようだ。
 ルペン氏が出してる選挙公約には、悪くないものもある。しかし、どうしても彼女を選べない点がいくつかある。ルペン氏が、イスラム教への憎しみをあおっていることは有名な話だが、ほかにも、警察や軍隊の権力の強化、刑務所の増加、終身刑の復活などを公約としている。これを理由に「仕方なく」マクロンに投票してしまうのも、過去の過ちの繰り返しだ。まるで、上からうまく仕掛けられた罠に落ちるように感じないでいられない。

Facebookに吹き荒れる「警告」の嵐
 Facebookを開くと「マクロンは銀行業界出身のエリートで、オランド大統領の相続人! マスコミから大げさなサポートをもらって、元から結果は決まってたじゃん! 投票をしたって、結局は何も選べない状況だ!」とか、「マクロンは、オランド大統領や周りの権力者たちが仕掛けた罠で、彼に投票しても仕方ない」とか、「いや、気をつけろ! ルペンはマクロンからこぼれた票を狙っている」という投稿が数多く見られる。
 今回、躍進した銀行出身のマクロン氏は、39歳と若いせいか、やわらかすぎる印象が否めない。また、環境、失業、教育など、フランスが抱える社会問題に対して十分な公約を提案できていないのも気になる。
 実は、私の周りに多かったのは、極左の代表だったジャン=リュック・メランション氏の支持者だが、1回目で敗れてしまったため、2回目の決戦投票では、メランション氏の指示に従って、多くの人が白票(記名なしで投票)あるいは、不参加を考えているようだ。しかし、白票を投じても、最終的に選挙の結果に影響がない。一応、反対の声は伝わるかもしれないが、極右のルペン氏を勝たせてしまう危険性がある。
 こうした中、どちらに投票していいかわからない私のような国民に、残された道は2つしかない。極右の脅威の不安に負け、やむをえずマクロン氏に票を投じるか、「なるようになる」と、大勢のフランス人が同じ選択肢をすることを祈りながら、抗議の白票を投じるか。
 心を決めるため、日々ニュース記事を読んだり、人の意見を聞いたりしているが、正直どうしたらよいかわからない。ただ、どちらの候補者が選ばれたとしても、前向きに行動するしかないと思う。これが、今の率直な気持ちだ。きっと、多くのフランス人も同じ心境ではないかと思う。「最後の審判」まであと数日。私の頭痛がやむ日は訪れるのだろうか。

(引用おわり)
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