マイケル・ジャクソン一周忌の話題をニュースで見ていると、あれからもう一年になるのかと感慨深い。かれこれ一年前、シドニー滞在最後の夜は、アパートを引き払って、近所のホテルに宿泊し、出発の日の朝、ホテルのレストランのテレビで、マイケル・ジャクソンの訃報に接したのでした。
この一年で、すっかり日本の生活に馴染み、海外で生活したことは夢のようで、その痕跡がそこかしこに残るのが不思議なほどです。囚人服のようなスーツに身を包み、ネクタイを締める生活が始まり(クールビズの習慣に気が付き、間もなくネクタイを外しましたが)、湿度が高い気候に当惑しましたが、すぐに馴れました(諦めたと言うべきか)。続いて車社会で衰えた身体に情け容赦なく腰痛が襲い、通勤電車で立ちっ放しでも耐えられる体力を取り戻すリハビリを始めなければなりませんでした。駅までの往復で、靴や靴下が磨り減るスピードも格段に速い。狭い家や、窮屈な街のつくりにも、すぐに慣れました(慣らされたと言うべきか)。家にしても街にしても、整理整頓しているかどうかは別にして、狭いところ小さいところにコンパクトに緻密に詰め込む技術は芸術的です。さらに毎日の電車の運行時刻の病的なほどの正確さは奇跡的ですらあります。
無論、皮肉ではなく本当に良い面も一杯あって、水道の蛇口から安心して水を飲めるし清潔なのが、なんとなくホッとします。駅の立ち食いうどん(蕎麦と言わないところが関西人)ですら美味い。そして日本の社会は、基本的には競争社会ではない、同族意識が根底にあって、油断ならないと警戒心を抱くことも極めて少ない、優しい社会、今なお十分安心して暮らせる社会だと思います。ある意味で、国際社会にあっては大いなる田舎だと言えるのかも知れません。
最近、読んだ本(「競争と公平感」大竹文雄著)に興味深い統計が出ていました。
ピュー・グローバルという調査機関が2007年に実施した意識調査で、一つは「貧富の差が生まれたとしても、多くの人は自由な市場でより良くなる」という考え方に賛同するかどうか。インド76%、中国75%は意外でしたが、イタリア73%、韓国・イギリス72%、カナダや福祉で鳴らしたスウェーデンですら71%、アメリカ70%、スペイン67%、ドイツ65%、といったあたりまでは順当で、そこからガクンと落ちてフランス56%、ロシア53%、そして我が日本はロシアよりも低い49%と最低レベルなのです。
もう一つ、同じ機関による意識調査で、「自立できない非常に貧しい人たちの面倒を見るのは国の責任である」という考え方に賛同するかどうか。スペイン96%、インド・ドイツ92%、イギリス91%、中国90%、韓国87%、ロシア・スウェーデン・イタリア86%、フランス83%、カナダ81%と順当ですが、そこからカクンと落ちてアメリカ70%、そして我が日本は59%と、こちらでも最低レベルだというのです。税と社会保障費負担が世界で最も少ない国二つがしっかりドン尻に並んでいるところは、如何にも納得します。
勿論、こうした意識調査は、その時々のムードにある程度左右される面もあるでしょう。日本において、格差社会が社会問題化し、小泉改革で進められた規制緩和が悪者にされるキャンペーンがあった時代と符合して(意識が先か、キャンペーンが先か、よく分かりませんが)興味深く思いました。それに対して欧米諸国は、自由競争によって効率性を高めることと、競争の結果生まれる格差や貧困問題は、自由競争を制限することによってではなく、セーフティーネットによる所得再分配によって補正するという、経済学の基本は理解しており信任もあるようです。
著者の大竹さんは、市場競争も嫌いだが、大きな政府による再分配政策も嫌いだという日本の特徴はどうして生じたのかと疑問を投げかけます。それは、血縁や地縁による助け合いや職場内での協力という日本社会の慣習が、市場経済も国も頼りにしないという考え方を作ってきたのかも知れないという仮説を立てておられます。狭い社会でお互いよく知った者同士、お互いを監視できるような社会でのみ助け合いをして来たのが日本人社会の特徴で、その狭い社会の「外」の人に対する助け合いは行いたくないという感情を持っているのかも知れない、と。
ここで言う社会は要は伝統的な「ムラ」であり、国は「お上」であり、まさに何百年も続く日本の歴史そのものです。時代のムードの中で、時折、こうした深層心理、あるいはDNAが露わに顔を出すことがあることを、私たちは覚えておかなければならないのかも知れません。
この一年で、すっかり日本の生活に馴染み、海外で生活したことは夢のようで、その痕跡がそこかしこに残るのが不思議なほどです。囚人服のようなスーツに身を包み、ネクタイを締める生活が始まり(クールビズの習慣に気が付き、間もなくネクタイを外しましたが)、湿度が高い気候に当惑しましたが、すぐに馴れました(諦めたと言うべきか)。続いて車社会で衰えた身体に情け容赦なく腰痛が襲い、通勤電車で立ちっ放しでも耐えられる体力を取り戻すリハビリを始めなければなりませんでした。駅までの往復で、靴や靴下が磨り減るスピードも格段に速い。狭い家や、窮屈な街のつくりにも、すぐに慣れました(慣らされたと言うべきか)。家にしても街にしても、整理整頓しているかどうかは別にして、狭いところ小さいところにコンパクトに緻密に詰め込む技術は芸術的です。さらに毎日の電車の運行時刻の病的なほどの正確さは奇跡的ですらあります。
無論、皮肉ではなく本当に良い面も一杯あって、水道の蛇口から安心して水を飲めるし清潔なのが、なんとなくホッとします。駅の立ち食いうどん(蕎麦と言わないところが関西人)ですら美味い。そして日本の社会は、基本的には競争社会ではない、同族意識が根底にあって、油断ならないと警戒心を抱くことも極めて少ない、優しい社会、今なお十分安心して暮らせる社会だと思います。ある意味で、国際社会にあっては大いなる田舎だと言えるのかも知れません。
最近、読んだ本(「競争と公平感」大竹文雄著)に興味深い統計が出ていました。
ピュー・グローバルという調査機関が2007年に実施した意識調査で、一つは「貧富の差が生まれたとしても、多くの人は自由な市場でより良くなる」という考え方に賛同するかどうか。インド76%、中国75%は意外でしたが、イタリア73%、韓国・イギリス72%、カナダや福祉で鳴らしたスウェーデンですら71%、アメリカ70%、スペイン67%、ドイツ65%、といったあたりまでは順当で、そこからガクンと落ちてフランス56%、ロシア53%、そして我が日本はロシアよりも低い49%と最低レベルなのです。
もう一つ、同じ機関による意識調査で、「自立できない非常に貧しい人たちの面倒を見るのは国の責任である」という考え方に賛同するかどうか。スペイン96%、インド・ドイツ92%、イギリス91%、中国90%、韓国87%、ロシア・スウェーデン・イタリア86%、フランス83%、カナダ81%と順当ですが、そこからカクンと落ちてアメリカ70%、そして我が日本は59%と、こちらでも最低レベルだというのです。税と社会保障費負担が世界で最も少ない国二つがしっかりドン尻に並んでいるところは、如何にも納得します。
勿論、こうした意識調査は、その時々のムードにある程度左右される面もあるでしょう。日本において、格差社会が社会問題化し、小泉改革で進められた規制緩和が悪者にされるキャンペーンがあった時代と符合して(意識が先か、キャンペーンが先か、よく分かりませんが)興味深く思いました。それに対して欧米諸国は、自由競争によって効率性を高めることと、競争の結果生まれる格差や貧困問題は、自由競争を制限することによってではなく、セーフティーネットによる所得再分配によって補正するという、経済学の基本は理解しており信任もあるようです。
著者の大竹さんは、市場競争も嫌いだが、大きな政府による再分配政策も嫌いだという日本の特徴はどうして生じたのかと疑問を投げかけます。それは、血縁や地縁による助け合いや職場内での協力という日本社会の慣習が、市場経済も国も頼りにしないという考え方を作ってきたのかも知れないという仮説を立てておられます。狭い社会でお互いよく知った者同士、お互いを監視できるような社会でのみ助け合いをして来たのが日本人社会の特徴で、その狭い社会の「外」の人に対する助け合いは行いたくないという感情を持っているのかも知れない、と。
ここで言う社会は要は伝統的な「ムラ」であり、国は「お上」であり、まさに何百年も続く日本の歴史そのものです。時代のムードの中で、時折、こうした深層心理、あるいはDNAが露わに顔を出すことがあることを、私たちは覚えておかなければならないのかも知れません。
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