最近の追悼文では、そんなにファンではないのだが…が枕詞になっている。仮に熱烈なファンではなくても、同時代を生き、身近な存在として当たり前に過ぎて、いざ失われると、実は私の冴えない人生に彩りを添える、かけがえのない存在だったことに今更ながら気がつき、たまらない喪失感を覚えるのだ。
鳥山明さんとは、学生時代に家庭教師のアルバイトをやっていたときに中学生の教え子から「面白いから読んでみて」と10数冊のアラレちゃんコミックスを持ち込まれて、そこは暇な大学生だから、貪り読んで楽しんだのが唯一の接点になる。が、それだけではない。ともすれば心細い海外生活にあって、「ドラゴンボール」は日本と日本人の存在感を示して、ついぞ読むことはなかったけれども、そこにいるだけで心強い、日本人駐在員の心の支えのようなところがあった。
漫画やアニメが日本のソフトパワーと言われて久しい。マレーシアに住んでいた頃、噂ではなく本当に原作を日本語で読んでみたいからと日本語を勉強する人がいた。インバウンド観光でも聖地巡りは定番になっている。
特徴的なのは、お隣のKのつくドラマや音楽と比べてみればより明確に分かるのだが、欧米文化に迎合することなく、たとえガラパゴスと揶揄されようと、日本人が好きでやっていることが、欧米やアジアやその他の異文化の人たちから面白いと発見されたことだ。東洋の渡り廊下の先にある奥座敷とも言えるような辺境の島国であればこそなのかもしれないが、「面白い」を追求して、必ずしももの珍しいだけではなく受け入れられることの不思議さ。
デーブ・スペクターさんが、中野信子さんとの対談の中で、「おもてなし」を意識することの愚を痛烈に批判されていたのが面白かった。日本人らしく、あるがままに振る舞うことにこそ、良さがあり面白さがあるのであって、意識したら台無しだというような趣旨だった。まるで珍獣⁈のようだが、こと文化的なところに関しては、日本人は日本人らしく、日本人の「好き」「面白い」にこだわって存分に突き進むのがよいと思う。
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