68年前の昨日、日本帝国海軍・連合艦隊・第一航空艦隊は、ハワイ・オアフ島・真珠湾にあったアメリカ海軍・太平洋艦隊を奇襲し、太平洋戦争の口火を切りました。この攻撃はControversialなものとしてよく話題になります。
一つは戦史上の話で、米軍の戦艦8隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげたことが喧伝される一方、その内の6隻は後に引き揚げられて復帰しており、米軍が結果として失った戦艦は2隻に過ぎなかったこと、空母に至っては真珠湾外の任務についていて無傷だったこと、乗組員も上陸していて人的被害は少なかったこと、石油タンク爆撃をはじめ追加的な攻撃がなされなかったために港湾施設の実害も少なかったこと等、実効を疑問視する声もあります。戦史上という点でより重要なことは、艦隊決戦主義が主流だった当時にあって、航空機による海戦が成功を収めたことで、以後、世界の海軍が空軍化する画期的な出来事となったことでしょう。
もう一つは政略上の話で、在米日本大使館書記官の不手際によって宣戦布告が遅れたために日本の「騙し討ち」だと非難する人がいる一方で、米国ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に察知していたとか、さらには日本の攻撃を誘い出したのではないかと反論する人もいて、当時の開戦秘話を巡っては多くの著作がモノされ、興味が尽きません。
しかし、ふと冷静に考えてみると、今だからこそルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を察知していたかも知れないと言えますし、実際に当時の情報戦におけるアメリカの実力から、日本が真珠湾を攻撃することを示唆する情報は挙がっていた可能性が高いですが、それは雑多で膨大な情報の一つとして埋もれていた可能性も高く、少なくとも確信は持てていなかったのではないか・・・というあたりが真実ではなかろうかと思います。その証拠に、真珠湾で米軍はなんだかんだ言って大損害を被りましたし、当時、アメリカの艦隊の動きを見ると、日本の攻撃目標はフィリピンやウェーキ島と考えていたフシがあります。
歴史の審判を経た後世の私たちは、後知恵で何とでも言えるのであって、実際に当時を生きていた人たちにとっては、それほど状況がよく見えていなかったのではないでしょうか。幕末、戊辰戦争の緒戦は、薩長軍よりも幕府軍が圧倒的に有利だったと言われます。それだけに新撰組は時代の波に翻弄され、潮目が変わったことになかなか気づかず、ずるずる後退して行った可能性が高い。そこに私たちは滅びの美学を感じると共に、歴史の冷徹な現実をも感じざるを得ないわけです。このあたりは、ビジネスの現場とMBAでのケース・スタディとの関係にも対比し得るものだと思います。
上の写真は、その昔、真珠は真珠でも「東洋の真珠」と呼ばれたペナン島の、第一の街ジョージタウン。
一つは戦史上の話で、米軍の戦艦8隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげたことが喧伝される一方、その内の6隻は後に引き揚げられて復帰しており、米軍が結果として失った戦艦は2隻に過ぎなかったこと、空母に至っては真珠湾外の任務についていて無傷だったこと、乗組員も上陸していて人的被害は少なかったこと、石油タンク爆撃をはじめ追加的な攻撃がなされなかったために港湾施設の実害も少なかったこと等、実効を疑問視する声もあります。戦史上という点でより重要なことは、艦隊決戦主義が主流だった当時にあって、航空機による海戦が成功を収めたことで、以後、世界の海軍が空軍化する画期的な出来事となったことでしょう。
もう一つは政略上の話で、在米日本大使館書記官の不手際によって宣戦布告が遅れたために日本の「騙し討ち」だと非難する人がいる一方で、米国ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を事前に察知していたとか、さらには日本の攻撃を誘い出したのではないかと反論する人もいて、当時の開戦秘話を巡っては多くの著作がモノされ、興味が尽きません。
しかし、ふと冷静に考えてみると、今だからこそルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を察知していたかも知れないと言えますし、実際に当時の情報戦におけるアメリカの実力から、日本が真珠湾を攻撃することを示唆する情報は挙がっていた可能性が高いですが、それは雑多で膨大な情報の一つとして埋もれていた可能性も高く、少なくとも確信は持てていなかったのではないか・・・というあたりが真実ではなかろうかと思います。その証拠に、真珠湾で米軍はなんだかんだ言って大損害を被りましたし、当時、アメリカの艦隊の動きを見ると、日本の攻撃目標はフィリピンやウェーキ島と考えていたフシがあります。
歴史の審判を経た後世の私たちは、後知恵で何とでも言えるのであって、実際に当時を生きていた人たちにとっては、それほど状況がよく見えていなかったのではないでしょうか。幕末、戊辰戦争の緒戦は、薩長軍よりも幕府軍が圧倒的に有利だったと言われます。それだけに新撰組は時代の波に翻弄され、潮目が変わったことになかなか気づかず、ずるずる後退して行った可能性が高い。そこに私たちは滅びの美学を感じると共に、歴史の冷徹な現実をも感じざるを得ないわけです。このあたりは、ビジネスの現場とMBAでのケース・スタディとの関係にも対比し得るものだと思います。
上の写真は、その昔、真珠は真珠でも「東洋の真珠」と呼ばれたペナン島の、第一の街ジョージタウン。
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