風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

課長試験

2010-03-06 21:38:18 | 日々の生活
 大学を卒業して、6・3・3・4の16年の学生生活を終了すれば、せいぜい入社試験を最後に、試験というものから解放されるものと思っていたら、会社に入って10数年経ってから課長に昇進するための試験が待ち構えています。晴れて合格して課長になると、労働組合を脱退して、部下を持ち、会社の経営を支える側に立つことになるわけで、試験とは言え、その後の会社人生を決定付けるものになるため、皆さん真剣に取り組みます。この冬は、上の子の高校受験だけでなく、部下の一人が課長試験を受けるというので、いわば受験生を二人抱え、指導や支援にちょっと多忙な日々を過ごしました。
 試験問題は、当社の場合、全社共通の一次試験として算数・国語のアセスメント・テストと論文問題の二本立て、二次試験は事業ライン毎に実施されるプレゼンテーションに集約されています。アセスメント・テストは、ただの算数の計算問題や国語の漢字や言葉の問題ではなく、会社生活において問題解決や意思決定を行っていく上で重要な、推論などの論理思考力や理解力といったクリティカル・シンキングの力を試すものです。いったん試験形式に慣れれば、それほど向上するものではなく、いわば基礎学力とも言うべきもので、当社の場合には、グロービスのGMAPを使っています。論文やプレゼンテーションは、いずれも業務上の課題や施策を纏めさせるもので、業務知識や現実主義に根差した、着想のユニークさ、構想力、論理的な説明力を問うものです。
 かつては、経理や人事やマーケティングの本を読んで、まるで学生に対するように正答を問う問題が出されたものですが、試験前になると仕事時間中にも係わらず会議室にこもって勉強する人が続出して顰蹙を買い、改められました。それは業務に支障が出るからというだけではなく、会社生活でこれらの知識は必要であっても、必ずしも試験で良い点を取ることが仕事を進める能力と直結するものではないためだろうと思います。
 こうして見ると、会社生活をはじめとして、学校を卒業した後の人生において必要となる資質は、学校で学んだ知識そのものではありませんが、未知のものに対する飽くなき好奇心や、論理的な思考法など、学問に向かう基本的な姿勢とそれほど変わるところはないことが分かります。理科や社会の知識の単なる詰め込みは、モチベーションがあがらずツマラナイものですが、適正な歴史観や科学観をもつことは現在を見定め将来を予測するベースとなるものであり、美術や音楽の授業も、その後の人生に必要な教養のベースを形作るのに役立つことは間違いありません。重箱の隅をほじくるような枝葉の知識を問う受験勉強は行き過ぎですが、受験勉強を一概に悪と決め付けるのもまたもう片方の行き過ぎであり、その中間の王道を行くことは重要だろうと思うわけです。前回に続き、学校の勉強に対する考え方について誤解を招かないよう、しつこく書いてみました。
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グライダーと飛行機

2010-03-05 02:01:49 | 日々の生活
 以前、オーストラリアをはじめとする海外の学校の授業は、日本のように教科書に沿って授業を進めると言うよりも、授業において教師の裁量に委ねられる部分が大きく、日本以上にアカデミックな世界を覗かせたり実学的な興味を満足させたりするものが多いということに触れました(1月17日のブログ、http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20100117)。
 実は、上の子(中学三年)は、日本に帰国した当初、学校の授業がつまらないと、毎日こぼすので、どうせ英語の授業が簡単過ぎてつまらないのだろう、あるいは日本語が分からなくてついていけないだけだろう、だからその内慣れるだろうと高をくくっていたのですが、どうもそればかりではなく、授業の進め方そのものがつまらないようでした。いろいろ話を聞き出そうにも、うまく表現できないようですし、受験モードの日本の中学三年と現地の中学一・二年を比べるのはフェアではありませんが、私の想像力で補って解釈してみます。 
 誤解を恐れずにちょっと単純化すると、日本の授業は、教科書だけでなく、プリントを配ったりもするようですが、十年一日、基本は詰め込み教育ですね。教科書に書いてあること、参考書にもっと詳しく書いてあることを忠実に覚えて、余計なことはせずに、テストで良い点を取れば、学校的には良い子になります。他方、海外では、教科書を中心とする授業に重きを置かれません。テーマを決めて、子供たちに調べさせて、みんなの前で発表させる、といったようなことや、最近は日本でも見かける総合学習のようなことが、海外ではごく当たり前に行われています。明らかに授業における教師の自由度が大きく、工夫の余地があります。しかも宿題が多く、出来る子にはどんどんやらせ、出来ない子はそれなりに置いておかれます。課外活動も多い。そういった機会には親もボランティアで借り出されることが多く、いわば教師とは運命共同体で、日本の一部で問題になっているような“モンスター”ペアレントは、いなさそうで、教師が萎縮することもなさそうです。
 こうした違いを総括するのに、外山滋比古さんが、グライダーと飛行機の違いを比較しているのが参考になります。グライダーは、位置エネルギーや風力エネルギーによって飛びますが、自ら推進力を持ちません。いわば学校の先生に導かれるまま、ついて行くイメージ、すなわち個人の意思や個性の違いは考慮されず、一方通行の授業という形で知識を伝授する教育のありようはグライダーを育てるものと言えます。他方、飛行機はエンジンを積み、自らの意思で飛びます。各人に問題を設定させ、個性や能力に応じて調べ考えさせて、双方向のコミュニケーションの中で、何らかの解決策を見出すように仕向ける教育のありようは、飛行機を育てるものと言えます。前者は、一つの答えに到達することを良しとするものであり、後者は、答えは実はいろいろあって、それが論理的に説得的に説明されていれば良しとするものです。
 どちらもそれなりに重要だと思いますが、日本の教育は片方に傾斜し過ぎており、海外の教育はもう片方に傾斜し過ぎていると言えます。そして、学校でどちらの訓練を受けているかによって、将来、社会に出てからの仕事の選び方、進め方のありようをも決めているように思います。日本では、大企業に就職することが成功の証であり、企業の中で再び丁稚から始めて修行を積んで一人前になるまで鍛えられます。他方、アメリカや日本を除くアジアでは、むしろ起業が成功の証であり、自ら新しい道を開拓します。今の日本の閉塞感は、いろいろな問題が指摘されますが、例えばカイゼン(改善)は行なえても、パラダイム転換を惹き起こせない自立精神の欠如は、教育制度にも起因するように思います。
 こんなことをつらつら思いながら、子供の目から見ると、自分はなんとツマラナイ授業を受けてきたことかと思います。それが私個人の経験ではなく、実際に何十年、何百年と行われて来た現実の重みを、かみしめます。
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バンクーバー・オリンピック(補遺)

2010-03-02 00:07:57 | スポーツ・芸能好き
 スピードスケート女子団体パシュート(追い抜き)のことに触れないわけには行きません。小平奈緒、穂積雅子、田畑真紀の三人娘が健闘し、ドイツに0.02秒の僅差で惜敗しましたが、日本に今大会三個目の銀メダルをもたらしました。日本女子スピードスケート史上で初めてのメダルです。残り一周を残して1.14秒の差をつけて先行した時には、これなら逃げ切れたかと、恐らく日本中の誰もがぬか喜びしたことと思います。残念ながら噂通りだったドイツの猛烈な追い上げにあい、目視はもとより、ゴールの瞬間の写真で見て辛うじて一足分の差が分かる程度のきわどい勝負で、涙を飲みました。折りしも昨晩の「エチカの鏡」で、北島康介選手を指導した脳科学者が、脳は、あと残り僅かだと認識すると手を抜いて最後の追い込みが鈍ってしまうものだから、北島選手には、壁にタッチした時ではなく、振返ってスコアボードを仰ぎ見た時がゴールだと教え込み、最後の最後まで手を抜かせない作戦で、見事に金メダルを獲得したのだと自慢していました。三人娘が、最後の一瞬で手を抜いたとは言いませんが、ゴールをゴールと思わずに走り抜けていればと思いたくなるようなきわどさでした。
 そうは言っても、この週末は、やはりフィギュア・スケート女子フリーの演技をこれでもかと何度も見せつけられ、見るたびに見入りました。そして滑り終わった直後の浅田真央選手の言葉にならない30秒インタビューも、何度も見せつけられているにも関わらず、見るたびに涙を誘われました。そのたびに浅田選手の曲が荘厳と言えば聞こえは良いですが要は暗いことに、見るたびに落ち込みましたが(笑)、やはり選曲が悪かったと言わざるを得ません。その証拠に、ショートプログラムやエキシビションで見せた浅田真央選手の明るい笑顔は最高でしたね。パワフルに明るく軽やかに弾け飛べば、つい審査員も乗せられたのではなかったでしょうか。
 どうもあの曲は、浅田選手のためではなく、タラソワ・コーチが元々ミシェル・クワン選手のために用意していたものだったと言われています。勝算あってのこととは思いますが、タラソワ・コーチは、ただ明るいだけの曲では物足りないと思い、プログラムも曲も敢えて難しいものを選びました。食事制限でエンピツのように細く、童顔で愛らしい笑顔の浅田選手には重厚過ぎて、持ち味が存分に生かせなかったのではないかと思うのは私だけではないでしょう。タラソワ・コーチは、今頃になってどうやら構成も古かったと批判されていますが、ロシアの風土を体現していたかのようです。服装もなんとなく古めかしかったですね。口紅を引き、無理やり踊らされている人形のように見え、不憫でした。
 その点、キムヨナ選手は、エキシビションでも優雅に舞っていました。技術よりも演技に傾斜する採点基準を先取りしていたかのようです。・・・たら・・・れば、は許されませんから、今回は完敗を認めざるを得ません。ただ、直前に母親を亡くし、それでもなお銅メダルを勝ち取った地元のロシェット選手は、「(浅田)マオに感謝したい」と言ってくれたことは聞き逃せません。「果敢にトリプルアクセルに挑んだ彼女の姿を見て、悲しみを忘れ、燃えることが出来た」のだそうです。浅田選手は、エキシビションでトリプルアクセルの女王と呼ばれたように、フィギュア・スケートの歴史の一頁を飾ったことで、良しとしようではありませんか。
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市民マラソン

2010-03-01 01:58:20 | スポーツ・芸能好き
 4回目の東京マラソンが開催されました。過去最多の3万5千人が参加したそうですが、応募は毎回うなぎのぼりで31万人超、競走率8.9倍と、走ることが出来るのは極めて「狭き門」になっています。実際に、私のかつての同僚で、毎年外れている人がいる一方、今の同僚で、4回続けて参加した人もいますが、その確率はなんと0.1%だそうな。こうして見ると、東京都としては、興業として大成功ですね。近隣県のマラソン大会ともタイアップして、同時期開催で盛り上がっているようですし、若い女性を中心にマラソン人口も増えているようです。
 私も、かれこれ10年以上前になりますが、3万人規模の市民マラソンに参加したことがあります。ニューヨーク・シティ・マラソンで、これだけの規模になると、兵站、所謂ロジスティクスが大変な作業になります。その一つは、スタート地点に用意する簡易トイレで、見渡す限りの数を揃えたとしても、スタート直前には混み合うため、待っていられない男性が立ちションに至るのは止むを得ないにしても、辺り構わず座りションを始める女性ランナーも出て来たのには、さすがに狩猟民族のアメリカだと、その逞しさに感心したものでした。もう一つは、沿道の給水施設ですが、こちらの方はよくしたもので、その時は折悪しく11月初めの冷たい雨がそぼ降る悪条件でしたが、沿道は応援の人たちで途切れることはなく、子供たちをはじめとして、パン切れやバナナや飲み物を差し入れてくれるボランティアが大勢いて、助かります。
 市民マラソンの良いところは、参加する方も観戦する方も、お祭り騒ぎのように楽しめるところでしょう。ニュース番組を見ていると、東京マラソンでも仮装するランナーがいるようですが、アメリカではどの市民マラソン大会でも、着ぐるみをまとったり、タキシードで正装したり、缶ビールを目の前にぶら下げたり、大きなアメリカの国旗を担いだりと、それぞれに工夫して観客を惹きつけようとするランナーがいて、見るだけでも楽しい光景です。逆に、走っている方から眺める景色もなかなか興味深い。ランナーの色とりどりのコスチュームが気になりますし、力強い走りや軽々とした走りを目で追います。沿道の人たちの中には、プラカードを掲げて応援してくれる人も大勢いて、なるほど英語でこういう風に表現するのかと感心したり、音楽をがんがん鳴らして、応援すると言うよりも自分たちが踊り狂って盛り上がっている人たちもいます。ニューヨークは人種の坩堝で、黒尽くめのユダヤ人街を通り抜け、緑尽くめの恐らくアイリッシュ街も通り抜けるのも目を惹きますし、ちょっと治安に不安のある北部の市街を通り抜ける時には、立ち止まったり歩いたりしないよう、思わず元気を振り絞ったりします。日本のマラソン大会は、XXX走る会などの走り屋さんが多く、修行僧のような厳しさがあったものでしたが、この東京マラソンはこれまでになく楽しそうで、走るコースの街並みにも興味が尽きないことでしょう。
 こうして3時間も4時間も、一体、何を考えて走るのかと疑問に思う方もいるかも知れませんが、意外に、ランナーや街並みや沿道の人たちを目で追い、匂いや風を感じて走っていると、刺激一杯で、飽きることはないことが分かるでしょう。
 ニューヨーク・シティ・マラソンでは、ゴール地点のセントラルパークの数マイル手前に、ナイキが大きなテレビ画面広告を出していたのを、今も思い出します。その傍らのコピーが秀逸でした。「何故走るのか?」「走り切るためさ」・・・こうして日本語に訳してしまうと味がなくなってしまいますし、その時の臨場感もなくなってしまいますが、実はこの問答は一人称のもので、原文は、Why do I run? To finish. これは、走っているような歩いているような、へたっている素人ランナーには、沿道の応援にも増して、しっかりしろよ~と尻を叩かれるような、心に響く、自らを奮い立たせるメッセージでした。そこに山があるからだ、と答えた山登りがいましたが、それと同様、こうした楽しい大会があると、走りたくなる気持ちがむくむくと頭をもたげます。さて。
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