風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ネット時代・続

2011-01-14 03:11:28 | 時事放談
 テレビCM制作会社でプロデューサーをやっている高校時代の友人は、年末になると「今年のベスト10」と題したメールを知人に配信します。その年に読んだ本や、観た映画や演劇の中から、自身が選んだベスト作品をそれぞれリスト・アップし、コメントを添えて紹介してくれるのです。もうかれこれ10年以上続いていて、高校時代の演劇青年そのままに、目にする映像や耳にする音や追う活字が私と違うところが刺激的で、楽しみにしています。
 この年末には、ベストのほかに、i-phone を購入してtwitterを見る機会が増えたと、近況報告が寄せられていました。今や電車の中で新聞を読むのと同時に携帯電話でメールし、i-phoneでtwitterをする三刀流で、一体、大量な情報をどうすればいいのか? 重要なのは情報に惑わされずに自分の考え方や価値観をしっかり持つこと、それでは揺るがない考え方や価値観を持つにはどうするか? 結局のところ、たくさんの人に話を聞き、読み、経験し、最後に自分で考えて、考えたことを自らの言葉で再構築し、他人にそのことをきちんと伝えることやり続けることによって、出来あがってくるのではないか、などと自問自答していました。私がブログを書く理由と重なって、興味深い。
 インターネットの時代には、情報を記憶するより編集する能力が大事だと言われたことがありました。しかし、編集するにしても、ある価値を体現するものでなければ意味がないのは、創造することと変りません。そしてそれなりに普遍性がなければ説得力をもち得ません。価値を体現し、普遍性をもち始めると、ある型あるいは軸が出来てきます。そうした型や軸は、常に仮説・検証しながら、磨き続け、鍛え続ける、感性が重要になります。このように、インターネット時代であれ、それ以前であれ、表現することの特性に変わりがあろうはずはなく、インターネットはツールに過ぎないこと、これまでになく強力なツールであるだけに、惑わされてはいけないものだと自戒します。
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ネット時代

2011-01-12 00:26:55 | 時事放談
 今朝の日経新聞に気になる記事がありました。2010年の米国のインターネット・サイト訪問者数シェアで、フェイスブックがグーグルを抜いて首位に立ったというのです。ネット調査の米エクスペリアン・ヒットワイズによると、1~11月の同シェアで、フェイスブックが8.93%で首位、グーグルは7.19%で二位、ヤフー・メールは3.52%で三位であることから、通年でもフェイスブックがグーグルを抜いたことはどうやら間違いないようです。
 ビジネス・パーソンが使う情報インフラとして真っ先に挙げられるのはEメールであり、誰しも、毎朝出社して最初にやることは、パソコンに火を入れてメーラーを開くことだと思いますし、私も感覚的に一日の三分の一はメーラーを開いているように思います。しかし、先日、ある雑誌を読んでいたら、朝、メーラーではなくフェイスブックを開くようになったと、さりげなく書いている人を見つけて、衝撃を受けました。私も、ペナン、シドニー時代の同僚たちと繋がる手段としてフェイスブックに形だけ登録し、更にボストンやサクラメント時代の同僚とも繋がるようになって、僅かながらもSNSの威力を思い知りましたが、勿論、職業に依るとは言え、SNSが、問いかければ即座に何百もの回答が届くからと、ビジネス・シーンで使われていることには、正直なところ衝撃を隠せませんでした。
 冒頭の話に戻りますが、IT業界で長らく君臨したマイクロソフトを引き摺り下ろしたのがグーグルで、数年前、梅田望夫さんの「ウェブ進化論」を読んで、私自身のネット・リテラシーに関して随分脅された(!?)記憶も新しく、グーグルの天下は当面揺るがないものと思っていただけに、今回、フェイスブックが訪問数とは言えグーグルを凌いだのは新鮮な驚きとまでは言わないものの、時代は次のステージに移りつつあるのかと感慨を新たにしました。勿論、フェイスブックといい、グーグルといい、ヤフー・メールといい、三者三様、マイクロソフトもいまだ健在ですし、グーグルだって消えてなくなるものではありませんが、ネット社会の進化は留まるところを知らないようです。
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情報と水

2011-01-09 17:52:31 | 日々の生活
 シドニーに滞在していた頃に綴っていた日記ブログは今は休眠状態ですが、年末に問合せメールが入って、何ごとかと思って開けて見たら、某テレビ局の番組制作会社の方から、ブログに掲載されているハーバーブリッジの写真を、元旦朝のテレビ番組で使わせてもらえないかという、使用許諾を乞うものでした。所詮は観光地の写真ですから、気象条件さえ整えば誰が撮っても似たようなもので、著作権を主張する類いのものではありません。思い出の一コマに過ぎず、その観光地を訪問したコストを回収しようとする類いのものでもありません。むしろ使って貰えるなら光栄と、半信半疑で回答したところ、結局、二股も三股もかけていたのでしょう、別の写真に決まったようでした。
 それでも、どんな場面だったのだろうかと気になって、元日の朝、その番組を見ていると、確かにほんの一瞬、ハーバーブリッジを紹介するシーンで、あまり画質は良くなかったのですが、似たような写真が使われている場面を見かけました。こうした場合、かつてはプロのカメラマンが撮った写真か、あるいは何がしかのライブラリーから借用したのでしょうが、今やインターネットで検索すれば、素人映像が腐るほど出て来るので、お断りメール一本で、使えそうな映像には事欠かなくなりました。れっきとしたテレビ番組でも、こうして素人映像を使っているという事実に、ちょっと驚かされた一幕でした。
 情報は、長らく、対価として金を支払って入手するのが当たり前でした。雑誌や新聞など、記者や編集者といったプロの目利きが厳選した情報や、目利きが厳選した執筆者に書かせた、安心できる付加価値の高い読み物を提供してきました。しかしネット社会では情報がいくらでも無料で手に入る時代です。むしろネットには正真正銘の価値ある情報から怪しげな情報まで氾濫し、最近では投稿作品に剽窃が多いと報じられたりして、手軽にコピー&ペイスト出来る社会になって、著作権が混乱している始末です。
 他方、水は、少なくとも日本においては、ほとんどタダ同然で、蛇口をひねって出て来たものをそのまま口にできるシロモノでした。もっとも、私の場合、海外生活中、アメリカといいマレーシアといいオーストラリアといい、飲料用と料理用の水は、ミネラルウォーター10リットルのドラム缶で宅配してもらうのが常で、日本に帰国して、蛇口をひねって水が飲めることに、新鮮な感動を覚えたものでしたが、しかし最近では、日本でも、タダ同然で飲める水が豊富にあるのに、わざわざミネラルウォーターを買い求めてガソリンより高い料金を支払う人がいます。
 これまで両極端に位置していたような情報と水が、いま、交差し、ついにはまた逆の両極端に離れつつあるように感じるのは過渡期における錯覚で、所詮は飽くまで価値があると人々が認めるものに、人々は金を支払うものなのでしょう。ただ時代とともに、また技術革新とともに、価値あるものの値段が変わり得るのは、半導体の世界のムーアの法則を俟つまでもありません。企業の存在価値も、世とともに移ろい行くのが現実です。そして人もまた価値あるものを求めて移ろい行くのか・・・そんなことをつらつら思った正月でした。
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音楽のある風景

2011-01-08 11:58:28 | 日々の生活
 松の内はもともと15日まで、一部地域では7日まで短縮されていると、Wikipediaにはありますが、私が育った大阪では、子供心にだいたい一週間で平常に戻っていたように思います。残り香という意味では二週間は漂っていたかもしれません。ところが今では正月気分はせいぜい三が日、流通業が営業を休むのは元日だけ(場合によっては年中無休)という気忙しさで、なんとなく物足りない気持ちにもなり、のんびりしていた昔が懐かしくもあるのですが、他方、早く終わって内心ホッとするところもあるのは、特にTVで正月特番続きで辟易していたからです。
 別にテレビ好きではなく、最近は、せいぜい報道番組を見るくらい、トレンディーと名がつこうがつくまいがドラマを見ることは滅多にありません。何故か深夜にやっていた「秘密」だけは久しぶりに(それこそ数年振りに)見ていましたが、小説の面白さによるものでしょう。そんな中、80年代などの昔懐かしい音楽懐古番組が、制作サイドでは、それほど手間もコストもかからず出来て、騒々しいだけとつい思ってしまうお笑い番組のちょっとした箸休めにもなって、そこそこに視聴率は集められると期待されるためか、特番続きの中に時折り挟んであって、年のせいか、つい見てしまいます。
 そして、音楽が生活から消えて行ったのは、いつのことからか・・・ということを、つらつら思っていました。少なくとも80年代までは、いろいろなメロディーとともに、思い出が蘇るのですが、90年代になると、5年間、日本を離れていたせいもあって、ほとんどだめ。2000年代に入ると(つまりここ10年のことですが)、思い出すことから、音や匂いが完全に消えてしまいました。逆に、それらがねっとりとまとわりついているのが若さだったのかも知れないと、ほろ苦い気持ちで思います。
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箱根駅伝・続

2011-01-06 00:28:50 | スポーツ・芸能好き
 Wikipediaで箱根駅伝を調べていると、1920年の第1回大会開催に尽力したとして、金栗四三氏の名前が出て来ました。懐かしい名前です。この功績を讃え、2004年から、箱根駅伝の最優秀選手に「金栗四三杯」が贈呈されているそうです。今年は、花の2区で17人抜きを演じて区間賞を取った村澤選手に授与され、山登り区間で圧倒的強さを誇った柏原選手は三年連続受賞を逃しました。
 さて、その金栗四三氏は、日本の「マラソンの父」と称され、1912年のストックホルム・オリンピックでのエピソードが有名です。前年に開催されたマラソン予選会で、「マラソン足袋」を履いて当時の世界記録を27分も縮める大記録(2時間32分45秒)を打ち出したため、日本人初のオリンピック選手として大いに期待されましたが、当日、レース途中で日射病にかかって意識を失い、不覚にも気が付いたのは翌日の朝で、マラソン中に消えた日本人として、地元・スウェーデンでは長く語り草となりました。結局、棄権の意思が伝えられず、記録上、競技中に失踪して行方不明の扱いのままだったことに気が付いたスウェーデンのオリンピック委員会は、1967年、ストックホルム・オリンピック開催55周年記念式典に金栗氏を招待し、ゴール・テープを切らせるという粋な計らいを見せます。その時のアナウンスがふるっていて、「日本の金栗、ただいまゴール・イン。タイムは54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルム・オリンピック大会の全日程を終了する」と。またゴール後の金栗氏のコメントもふるっていて、「長い道のりでした。この間に孫が5人できました・・・」。
 私にとって懐かしいのは、高校時代に愛用したマラソン・シューズの名前が「カナグリ」だったからです。
 1902年頃、日本にペストが流行したため、マラソンを裸足で走ることが禁止されました。そこで履物として人気を集めたのが、スポーツのメッカと言われた東京高等師範学校(現・筑波大学)の向かいにあった足袋屋「ハリマヤ」の座敷足袋でした。そこの学生だった金栗四三氏と「ハリマヤ」は、畳や廊下を摺り足で歩くための座敷足袋を、当時はまだアスファルト舗装されていない土や砂利の長距離の道を走るに耐える「マラソン足袋」に強化するための改良を重ね、「カナグリ・タビ」を完成させます。いわば日本のマラソン・シューズのルーツです。1936年のベルリン・オリンピックに日本人として出場してマラソン金メダルを獲得した孫基禎選手も、足袋を履いて走りました。戦後、最後の「マラソン足袋」ランナーといわれた田中茂樹選手が1951年のボストン・マラソンに優勝した時、ゴール直後に、現地の新聞記者が血相を変えて「靴を脱げ」と喚いたので、不得要領のまま靴を脱いで見せたところ、記者たちが皆ホットするので、何故かと聞いたら、なんと彼らは日本人の足の指が2本しかないのではないかと疑っていたとか・・・いやはや。
 勿論、私が高校時代に愛用した「カナグリ」という名のハリマヤのマラソン・シューズは、それから数世代も後のもので、そうは言っても、現在では当たり前になったクッション性が高いエアと名のつくものに比べると、地下足袋に毛が生えた程度のチャチなシロモノでしたが、足が吸い付くようなフィット感と走りやすさは、当時の陸上・長距離選手の誰もが絶賛したものです。ナイキやリーボックやニューバランスなど影も形も無く、ミズノやアシックスの靴すらお粗末この上なかった当時にあって、ハリマヤ・シューズはオニツカ・タイガーと並び、我々陸上選手の憧れの的でした。
 技術革新がスポーツ記録の更新を支えるのは、今も昔も変わりません。そしてハリマヤが店をたたんで20年近くになるようですが、技術革新の担い手の栄枯盛衰もまた、今も昔も変わりません。

参考: JOCサイト(オリンピック・メモリアル・グッズ File No.13 世界を制したマラソン足袋)
    Wikipedia(箱根駅伝、金栗四三)
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箱根駅伝

2011-01-03 17:02:36 | スポーツ・芸能好き
 正月三が日と言っても、面白いテレビ番組があるわけでもなく、騒々しいお笑い特番よりは、つい箱根駅伝をBGM代わりに流していました。
 今年は、早稲田大学が、東洋大学の三連覇を阻止して、18年振りに総合優勝を果たしました。1区で大迫が区間1位で抜け出してから、唯一、5区で東洋大学・柏原に抜かれた以外(その瞬間、東洋大学が往路優勝を果たしましたが)、最後まで首位のポジションを譲ることなく、層の厚さを見せつけた形です。しかし圧勝というわけではなく、二位の東洋大学が最後の三区間で区間賞を取るなど、ゴール時点で21秒差まで追い上げられ、ぎりぎりの勝利だったと言えます。駅伝では、こうしたチームの勝利とともに、個人のゴボウ抜きにも注目が集まります。今年は、一つは、花の2区で、東海大学・村沢が区間歴代4位の好タイムで区間賞を取り、17人抜きを演じましたが、最下位でタスキを受け取った時点で、3位まで38秒差しかなかった幸運によるものでした。むしろ唯一とも言える見せ場は、今年も5区の柏原で、3位でタスキを受け取ったのでゴボウ抜きにこそなりませんでしたが、2位に2分近い差をつけてぶっち切りの区間賞を取り、春から夏にかけてトラックのシーズンに不振を極めた頃から復活し、箱根に間に合わせてきたのはさすがでした。
 それにしても、こうして、沿道の応援をなんとはなしに見ていると、関東では、六大学と言いラグビーと言い箱根と言い、学生スポーツの人気が高いものだとあらためて感心します。もっとも、箱根の場合、スポーツ面を埋める記事が乏しい真冬の、しかも総じて平穏な正月の風物詩として定着した幸運もあったでしょうし、日本人のマラソン好きも作用しているのではないかと、関西出身の私はヤッカミ半分で思ったりします。
 ヒマにまかせてWikipediaを見ると、正式名称は東京箱根間往復大学駅伝競走と言い、大学駅伝の関東チャンピオンを決める「地方大会」とあります。「地方大会」とわざわざ断るほどなのは、実際に、箱根で10位以内に入ると全国大会の出雲駅伝(その年の体育の日に開催される出雲全日本大学選抜駅伝競走)に、3位以内に入ると大学日本一を決める全日本大学駅伝(その年の11月第1日曜日に開催される全日本大学駅伝対校選手権大会)に、それぞれ関東代表として出場できるからですが、関西人の私には、「地方大会」の箱根駅伝が一番の盛り上がりを見せるように思えますし、実際に、箱根を制した早稲田大学は、出雲駅伝と全日本大学駅伝と併せ、史上3校目の学生駅伝3冠を達成した、などと報じられているのを見ると、まるで箱根が大学駅伝のトリを飾るかのような扱いですが、繰り返しますが、この正月の箱根駅伝は、今年10~11月に行われる全国大会の地方予選みたいな位置づけだというのですから、なんとも不思議です。
 なにはともあれ、まがりなりにも高校時代に陸上部の中距離をかじっていた私は、全国大会、もとい、超人気「地方大会」など夢のまた夢、箱根に出場できるだけでも幸せじゃないかと思ってしまいますし、インターハイ大阪地区予選で決勝にすら残れないほどでも、俄かに血が騒いでしまうのを抑えられませんでした。最後にフル・マラソンを走ったのはかれこれ11年前、ハーフもかれこれ5年前で、そろそろ鈍りに鈍った身体が、体内のバランスを取り戻そうとする一種の本能的な働き、ある意味でホメオスタシスを求めているのかも知れないとも思います。元日に飲み過ぎて、昨日は酒を断ち、しかし今日にはまた飲みたくなるのに似て(などと、こじつけも甚だしいですが)。
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パラダイム転換(下)人を活かす負けっぷり

2011-01-01 01:43:28 | 日々の生活
 2011年が明けましたが、昨日の2010年の総括を続けます。
 年をとると、一年が経つのが早いとはよく聞きますが、そりゃ人生40年以上も生きてくれば、ハタチの頃の一年が人生の二十分の一だったことと比べれば、今ではその半分の四十分の一の重みしかないわけで、この一年の出来事を小さいことのように感じるのは止むを得ないのでしょう。
 そして、そうこうしている内に21世紀の最初の十年が過ぎました。早いものです。それはまた同時に、日本にとって失われた十年が失われた二十年になったことでもあります。その間、日本の人口は1兆2千5百億前後で変らず、GDPも500兆円前後で変りませんが、中身は着実に変化していて、少子高齢化が進行し、社会保障費が増え続け、財政が悪化しました。実は、私の会社も、この十年で売上が変わらず、私たちは確実に年を取って、社員の年齢構成が高齢化し、収益性は確実に悪化しました。同じように、日本の企業のあちらこちらで、私たちのような年配の社員が居座り、若者たちがあぶれる始末で、社会全体が高齢化して、ここまで閉塞状況が長引くと、社会の活力という点で大いに問題があります。組織の劣化を憂えるわけです。
 例えば新入社員が入って来ると、組織に染まっていない発想が若々しい風が吹き込んだような新鮮さを覚えたものです。組織に染まりつつある自分を省みてヒヤリとし、一方で新人だった自分が否応なしに先輩に追いやられ、先輩ヅラするため、先輩としての自覚が芽生え、一段上の高みに登らされます。そうやって組織は新陳代謝を繰り返し、人とともに成長して行くわけです。ところが、最近は新入社員が入って来ることが少なくなりました。
 また、バブル崩壊後に入社した人たちが既に40歳を過ぎて、その間、(全てがそうだとは言いませんが)経済や事業の成長をさして経験せず、従い緊縮財政のもとに、販売施策投資や広告宣伝投資や固定資産投資など、金の使い方をさして知らないまま育っています。ただでさえ日本人は借金に対する罪悪感があり、借金して何か新しいことを始めるのが苦手ですが、だからと言って手元資金だけで出来ることは限られます。アメリカでは、借金すること自体が悪いという認識は無く、むしろどれだけ借金できるかが才覚の一つでもあります。借金をして、より高い生活水準を手に入れて、返済のため、より高い所得を得るべく、自らを追い込んで、自らを磨いて行く。それは事業そのものと同じプロセスであり、如何に借金をしながら財務状況を悪化させないで事業を伸ばして行くかが重要なわけです。そうした成長のスパイラルが、今の日本では働きにくい。
 日本の閉塞感は、外形、あるいは競争環境が、プレイヤーが変らないから、さして変らないまま、中身は劣化している、つまり、どんどん高齢化し、どんどん貧しくなっているところにあります。企業の中を見渡してもそうですし、企業プレイヤーを見ても、例えばこの十年で新たに台頭した企業として浮かぶのは、せいぜい楽天やファーストリテイリングくらいで、余り変化がありません。ガラパゴスたる所以は、激変する国際環境の中で、日本だけはプレイヤーが変わらず、競争環境もさして変わらないまま、いつしか国内市場は海外から隔絶されて特異な発展を遂げ、その国内市場に最適化してしまい、日本以外で競争して生きることが出来なくなってしまった、まさにこの一事にあるのでしょう。良くも悪くもこれが今の日本の真実の姿です。
 この半年、太平洋戦争の諸相を追ってきましたが(実はまだ終わっていませんが)、近頃、65年前の凋落振りが現代に重なって見えて仕方ありません。ただ手をこまぬいて見ているだけの凋落振りではなく、それこそ特攻隊を組織せざるを得ないほど追い詰められ、鍋・釜まで供出して節約して頑張り続け、本土決戦などという無謀な夢を信じてまで、ガムシャラに抵抗の姿勢を崩さず、最後は力尽きて崩壊するという、最悪のシナリオです。私たちは飽くまで再生を目指すのであれば、65年前の轍を踏まないで、いつまでも頑張り続けるのではなく、負けっぷりをよくすることを考えなければならないのではないでしょうか。
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