想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

言葉は世につれ 世は言葉につれ

2010年01月27日 | インポート

 暁の超特急という言葉が昔あった。昔の日本のスプリンターである。その名も吉岡隆徳である。以前にもこのブログに暁という言葉を載せた覚えがる。朝6時過ぎ犬の散歩で外へ出たときのこと、まだ、太陽が出る前のときのことである。世が白々あけるこの時のことを言うらしい。最近、この言葉も使わなくなったなとつくずく思う。というのも、自然のサイクルから私たちの生活がどんどん遠ざかっているということである。自然から学ぶことはたくさんある。いにしえのころから、人は自然とともに生活し、時には自然を神とたたえ、自然を大切にしてきた。特に、日本ではそのことが尊ばれてきた歴史があるのだ。
  目を言葉に転じても、そのことがよくわかる。昔は自然を対象にしたことわざや言葉がたくさんあったのだ。それが、最近ではあまり言われたり使われることが少なくなり、めったに口にもしなくなった感がする。暁という言葉もしかりである。暁などという言葉であのときの状態を表現する日本人の感性にも感心する。

 ここで、昔から言われている言葉や文章で最近使われなくなってきたものをあげてみる。

 あけぼの 星がまばたく きらめく 満天の星空 紺碧の空 紫の黒髪(黒い髪を紫という所の感性がすばらしい、醤油のことも「むらさき」という。あの微妙な色の違いがわかる日本人の感性の深さには感服してしまう。今の日本人なら、醤油の色は黒だといってはばからない。微妙に色はちがっているのだ。また、昔から鶯色、萌黄色、小豆色、鼠色、浅葱色などと色を自然界のものに置き換えている。日本人の自然に対する感性のすばらしさを思う。)
春雨だぬれてゆこう(最近はあまりこのような雨が降らないらしい。) なんともいえない細い柔らかな春のような雨である。ぬれると、むしろ心地よいきがする。雨が降れば傘をさすのが常識なのに「ぬれてゆこう」と、言っていることが光っている。今で言えば逆転の発想ということだろうか。なんとなく、そのときの情趣が漂ってくるのだ。いわゆる粋ということかな。 夕立 麦わら帽子 風呂敷 おかげさまで 針のむしろ 辛抱する 石の上にも三年 三日坊主 角隠し リヤカー 一升ます ばちがあたる 閻魔様 壁に耳あり障子に目あり 腹八分目 三日三晩 往還 つるべ もんぺ 割烹着…。
また、時間があればじっくり考えてみたいと思う。

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霜の洗礼 冬野菜たち

2010年01月27日 | インポート

 

朝、恒例のウォーキングを終え、菜園にいってみると、野菜の表面が白くなっていた。霜がおりていたのだ。大寒も過ぎたが、まだまだ、さむい冬が続いている。どの野菜も、この寒さの中でもじっと耐えている。しおれているものはない。春の来るのを待っているのだ。この寒さを超えて初めておいしい野菜になるのだろう。これが、自然界の摂理というものだろう。この、峠を越えるからこそ、おいしくなるのだ。
 今は、白菜や大根が旬だろうと思う。

 

 

 

 苗から植えたキャベツである。表面に真っ白く霜がついている。春には、きっとおいしいキャベツができるだろう。

 

 

赤カブである。アントシアニンがいっぱい含まれているらしい。ピンクの葉っぱが美しい。

 

 

ほうれん草である。根が深いらしく下までぐんと伸びて養分をとるらしい。土の中で、根がどうなっているか見てみたい。ほうれん草たちのお話が聞こえてきそうだ。

「もっと、根を深く伸ばして立派になりたいな。」

 

 

 

イチゴの苗である。昔、食べた露地植えの女峰の味が今でも忘れない。この寒さを乗り切ればおいしい実をたくさんつけるであろう。

 

はこべである。子供の頃、ウサギを飼っていたので、よくあぜ道などで鎌で取った思い出がある。ウサギの大好物である。余裕が出てくればウサギでも飼って放し飼いにしたいくらいだ。

 

 

 

さやえんどうである。ちょっと大きくなりすぎてしまった。もう少し遅く種をまけばよかったと思う。霜にやられるかと心配していたが、意外と寒さに強く、この分では春にはたくさんの実をつけるのではないかと思うと、楽しみである。四月からは時間がなくなるので、地植えのまま育ててみようと思う。

 

 

キャベツである。その葉の上で寒さにじっと耐えているモンシロチョウの幼虫がいじらしい。よく、この寒さにも耐えているものだと思う。私はさなぎで冬を越すのかと思っていたが、幼虫のまま冬をこすようだ。生命力の強さに感心してしまう。春にはキャベツ畑の周りをカップルで飛び交っている姿が目に浮かぶようだ。

 

 

 水菜に混ざっていた野菜である。その仲間の突然変異かも知れない。京野菜の仲間だろう。

 

 

日の菜大根ではなかったかと思う。アントシアニンがいっぱい入っているらしい。目にいいようだ。漬物にしようかと思う。酢に漬けるとその赤がよけい美しくなる。

 

 

 

エシャレットとオオイヌノフグリである。結構、この雑草はたくさん生えてくる。この時期かかせない雑草である。花も結構小さくかわいい。名前もいいネーミングである。詩にもよく出てくる。

 

 

すき焼きとよくあう野菜である。春菊という。まだ、10CMと小さいが、もうちょっと暖かくなれば急に大きくなるだろう。霜にも負けずによくがんばっているな。

 

 植物に降りかかる霜もこうしてみると、神秘的で美しい。自然の芸術とでもいいたいところ。自然界にはまだまだ、人智を超えた美しい世界がいっぱいあるようだ。それをみるのが、楽しみ。樹氷、霧氷の世界もいつかのぞいてみたい。知れば知るほど、神秘な世界。畏敬の念さえ感ずる。

 私も自然界の一員なのだ。自然と自分が一体となるとき、自我が消え禅で言う空の世界が現れてくる。そのとき、人は永遠の生命を得る。父が生前よく写経をしたり唱えていた般若心経の世界であろう。やがて、私もいつかはその世界に行き父と再会する。

 

 

 白菜も霜降りとなり、その寒さに身も心もしゃきっとなっていることだろう。白菜にもやはり生命が宿っているようだ。食べるという行為は自然界の生命を感謝していただくことだ。と、誰かが言ったことが思い浮かばれる。お互いの命を頂きながら自然界は調和を保っているようだ。大事な命を頂くわけだから、粗末にしてはいけない。そして、すべては輪廻転生してゆく。お互いが持ちつ持たれつの関係を保ちながら。

 白菜が結球するのも、誰が教えたわけでもない。時がくれば、そうなるのである。時がくれば…。科学では遺伝子にその記号が組み込まれているという。私にとってはそのことはあまり、意味がない。とにかく、時が来れば、そうなるのである。摩訶不思議なできごとである。

 

 

大根である。今が旬であろう。取れたものも切干にして保存している。切り干し大根にして生で食べると、結構甘さがあるのには驚いた。大根は思ったよりあまいのだ。だから、甜菜糖などというものがあるのかな。

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