震災2年4月21日
相対する言葉を浮かび上がらせると本質が見えて来る!
最近の世相をみていると、何事も効率主義がはびこり、物事の本質を見ないですべてが対処療法的に進んでいるように思う。
特に医療の世界も大変なようである。新しい機械や薬を使って治療しないと経営が成り立たないという現実が最優先で貝原益軒先生の「医は仁術」は経済に変化してしまったのではないかと目を疑ってしまった。
医師の養成を見ても金がかかりすぎる。その辺の所が解決しないと益々医療は算術となってしまう。
高齢者の薬漬けもすごいものがある。医者にいけば、たくさんの薬をもらう。医者はその副作用の為と称してまた、最新の機械で検査する。それで、保険請求の点数があがるのだ。これでは、薬で病気になってしまいます。
その結果、日本のGDPが増加すると言う変な循環ができてしまう。
毎年ある花粉症もひどいものである。そのための経済効果は大なるものがあるだろう。誰一人として、花粉症の原因をなくすことを考えない。
この世界も対処療法の世界である。どういう薬を使えば花粉症がなおるか。そのことばかりに目がいってしまい根本的な所が抜けているのである。
杉花粉一つをとってみても、これは山にある杉の木材を切り出して、本来の山にある広葉樹を植えればある程度解決する問題である。日本の植林政策も変な選択をして、国民につけを回したものだ。
山紫水明の日本の自然、四季折々の木々で囲まれた日本の国土はどうなったのでしょう。
ところで、医者は患者の様子を肌で感ずるのでなく、機械の結果をみて判断する。人の顔色や様子を見ようともしない。そんな医療がいいわけがない。どうも、その方向へ行っている気がする。
人間の本来持っている動物的な感覚がすべて機械の検査値に置き換えられている。だから、機械が故障したりしても気がつかないでいる。
今そこにいる本人の状態がどうかが最優先すべき事なのに、機械がはじいたデータで一喜一憂し、それで、判断してしまう。おかしい。
まだ、そのことに気づいておかしいと思えば正常なのに、そのことすら思わなくなっている日本の現状、籠の鳥と同じである。真実を見ようとしないのである。
いつのまにか間に合わせの答えで満足してしまっている。本質や真実がどこかに追いやられているのだ。
人間が本来持っている自然治癒力はどこへ行ってしまったのだろうか。つくずく考えさせられる。
眼科に行ったときにも、何の為に検査するかを知らされないで、最新の機械でどんどん検査をすませ医師は医師の都合を優先させ、医療とは何ぞやと本質の部分がどこかにいってしまった。検査をやる順序も逆になってしまった。
本来、医師が診察し、その問診を素にどういう医療を施すかが大切なのに、診察もしないで、勝手に看護婦が機械で検査をする。順序が違っているのである。
さて、ここで、大切なことに、本質とはなんだろう、と言うことがある。それは取りも直さず真実を見つめる目である。
一面それは、相対する両面を見るとよく分かる。以下どんな言葉があるか、整理してみたい。
個と全体、総論と各論、マクロとミクロ、具体と抽象、手段と目的、自己と他己、無と有、宇宙の世界と粒子の世界、天と地、突き詰めると俯瞰する、性善説性悪説、神と野獣、主観と客観、当為と現実、理想と現実、唯物と唯心、動と静、明と暗、高いと低い、男と女、地と図(ルビンの盃)、膨張と縮小、自然と加工、加減、高低、貧富、プラスマイナス、微分積分、NとS、地底と天空、意識と現実、心と形等々いろいろある。
とにかく、真実を探るにはこの両面をよくみないと分からない。これは、極論であり、その間に無限の考えがある。
人生には右にも左にもいけない重なりやのりしろといわれている部分もある。しかし、極論の考えを進めるとわかりやすい面もある。
どちらにしても、何が正しくて何が間違っているかの真実を見る目を曇らせてはいけない。
色も黒から白まで、その間に灰色があり灰色でも黒に近い灰色もあれば、白に近い灰色もある。
人生とは白と黒の間に明度差のある灰色のようなものでもあるともいえる。それは人生をモノトーンで見たときのことである。いわゆる水墨画の世界である。
反面、カラーで人生をとらえればまた、違った一面が見られる。モノトーンの世界から出てくると、急に明るく日がさしてきた感じがする。今まで降っていた雨雲の中から急に太陽が顔をのぞかせた感じだ。
私の中では感覚的には仏教は白黒の世界でキリスト教はは、カラーの世界だ。
人生を内省し静的にじっと見つめる東洋思想と外に向かってエネルギッシュに行動する西洋思想に似ている。
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