震災7年3月11日
丁度今から、6年前の今日のことだった。私は嶺田地区コミュニティセンターに勤務していた。マルティメディアルームで地域の方とお話していたが、なぜか、大きく部屋が揺れている。地震だと分かり、テレビのスイッチを入れ確認をした。数十分揺れていたと思う。今までの揺れと違うと思った。震源地は東北の沖合だった。あんなに長く大きな振幅の揺れがあったのは初めての経験だった。阪神淡路大震災の時と少し揺れ方が違った。暫くしてテレビでは大きな津波の画面に変わっていた。自動車が次々流されたり、田畑に迄大きな津波が押し寄せていた。逃げ遅れた自動車もあった。あの津波もあれだけの大きさは初めての経験だった。なにもかも、大きな凄い物だった。
その後、原発が津波に襲われ、最悪の事態となった。いわゆる放射能汚染である。チェルノブイリ以来の大きな汚染である。あれが、東京都まで襲ったと考えるともう、日本も終わりかと誰もが思っただろう。それだけ、大きな地震被害だった。おまけに、原発までやられてしまったのである。そして、最悪のメルトダウンまで起こってしまった。誰もが初めての経験で何がなんだか分からないようだった。
日本が根本的に変わってしまうように思えた。経済も大きな打撃を受けた。原発の近くの人は避難を余儀なくされた。
あれ以来、私はそのことを決して忘れまいと思い、その日を震災元年と決めた。いわゆる年号を変えた位のインパクトがあったからである。そして、その日の事を忘れない為にも自分では震災〇年という年号に決めた。あれから、6年の歳月が流れたかと思うと、光陰矢の如しはとはよくいったものだと思う。少しずつ復興も進み、もとの街がよみがえって来ている。しかし、まだまだ、色々な所に当時の後遺症が残っている。ましてや、心の傷は幾ばくかと思うと胸が痛む。二度とあってはならないと思うが自然災害なので、どうしようもない。それを避ける術を各人や国で考えるしかない。いつか、地震は起こるのである。
自然災害は必ず忘れてころにやってくるのである。そういう、事を念頭において行動しないと、命はいくつあっても足りない。そういう意味で、日本人の誰もがあのことから学ぶとすれば、あの日を震災元年と位置づけ初心を忘れないと心に誓う事である。人間とは時が経つの過去のいやなこともすべて忘れてしまう。だから、年号のように唱えることが大事だと思い、私はブログにその震災〇年を使うようにしている。