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震災7年12月25日
寒椿の葉の上にスケルトンとなって葉っぱが落ちていました。これを見ているだけで色々な想いが浮かんできます。
スケルトンというとがい骨を想い出します。それは人体のがい骨です。がい骨というと学校の理科室をイメージしたり外国の怪談が浮かんできます。当時小学校の理科室にはよくその模型がありました。今、想えば36年間もよく小学校の教師をやっていたなと想います。その間、社会と家庭以外の主任は殆どやって来ました。算数、国語、理科、音楽、図工、書写、道徳、体育、特殊教育、外国籍、情報教育主任とこれだけの事をやらせて頂き、良い経験でした。
小学校の良さは総合的に教科を扱うことです。そして、子どもをそのことを通して総合的に看取ることです。広く浅くというか、まあそんなことですが、その本質をつかむ事が大切です。物事の本質こそ、格なのです。だから、人格であり、格調、風格、品格につながって行くのです。最近はこのような言葉があまり言われないのが残念です。人間が薄っぺらくなったのかもしれません。表面的なことにこだわり過ぎている風潮も危惧し手います。
物事には本質があるのです。そこから波状してくることには間違いは少ないのです。本質を忘れた時から間違いが始まるのです。いわゆるボタンの掛け違いでしょうか。その掛け違いにいち早く気付けば良いのですが、自分に不利益が降りかかって来て初めて、気づく人が多いのは残念です。いわゆる天に唾することです。唾が落ちて来て初めて気付くのです。ついつい奢りが出てしまった等の反省点です。恋は盲目とい言葉がありますが、奢りは盲目です。いつでも謙虚でなければいけません。いつでも人は人間でありどこかとつながっているのです。だから、人と人の間と書くのです。昔の言葉はこうやって考えて来ると含蓄があります。
「儲ける」は信ずるものが集まるイメージですし、「稼ぐ」という言葉には、「家」に「禾」、すなわち、愛する家族にかてをもたらす光景をイメージできます。「親」は高い木の上に立ちよく見ることです。「忙しい」も、心を亡くすとかくからおもしろいですね。
今回、こんな物を自然の中で見つけました。葉っぱがスケルトンになっていたのです。肉体が滅びるとまず、こうなってしまうのかと想いました。自然は無情といえば無情です。なるべくしてなり、起こるべくして起こっているのですから。
そこには、在りし日の葉っぱの面影はありません。自然界とはまさに新陳代謝が常に行われているこのような諸行無常の世界です。生老病死が絶えず行われ、その中でも新し命に引き継がれて行きます。
私は趣味の一つとして園芸や野菜作りもしていますが、野菜を育てていると一年と言う短いサイクルで次々と新陳代謝が行われ野菜が生長し、変化していきます。このサイクルの中に何ともいえない喜びを感じています。
青々として白菜の芽を見ているだけで幸せを感じます。ネギの色の鮮やかさに感心もします。ネギの色は日本語で浅黄色ともいい、その緑の色は単に緑とだけで言い表せません。やはりネギの色は緑なんですが、浅黄色が一番似合います。まさにアナログの世界です。また、白ネギの白さもその中に生命が宿っていると想うとその白さは何と表現したらいいのでしょう。私たちは毎日その命をいただいているのです。思わず掌を合わせたくもなるでしょう。食事の時の合掌です。ネギは意識してそうなっているのでなく、ただ、命をつないでいるだけなのです。諸々の物をよく見ていると、自然界は実にうまくできているなと感心することしきりです。自然界にはあるべくしてあるものしかなく、いわゆる余分な贅肉が無いのです。だから自然なのです。懐もとてつもなく広いのです。すべてを飲み込んでしまいます。だから、今、自然は畏敬の対象となるのです。
Viva nature!