震災9年5月21日
縁は異なものといいますが、待っていても縁は来ますが、自分から縁を作り出していくことも大切なことです。私は縁にはこの両面があると考えています。
縁と言う言葉が少し気になりましたので、今、思いつくままに書き出して見ました。縁日、縁台、合縁奇縁、縁側、因縁果、遠縁、縁談、縁起、縁は異なもの…が浮かんで参りました。
調べてみますと、他にも気がつかないものが沢山ありました。熟語では、縁石、縁者、小縁、血縁、縁の下、縁結び、腐れ縁、絶縁、縁切り、無縁仏、縁遠い、縁絵巻、縁起直し、縁切り寺、縁台将棋、離縁、地縁、三世の縁、無縁仏、無縁社会、養子縁組、因縁をつける、信貴山縁起絵巻、縁もゆかりもない、縁遠い、縁は異なもの味なもの、袖触れ合うも多少の縁、釣り合わぬは不縁の基、縁と浮き世は末を待て…。
このことからしても、世の中は見えない縁で結ばれていると言うことが、分かります。それが自分で分かるものと、分からないものがどうもあるようです。それには心眼を磨くしかありません。俗にいう精神修養です。
手段としては色々あるでしょうが、仏門に入るのも一方法でしょう。ヨガや太極拳、東洋医学の勉強いいのではと想います。物事を俯瞰する思考法もいいでしょう。
私たちは何ら意識してませんが、巷は縁で溢れています。その中で、意識してもしなくても生活しているわけです。周りは縁だらけの状態です。書いていて、ふと、学生の頃の教授のいった「社会科学は組み合わせの学問である。」といったことを想いだしています。それも見方を変えればありとあらゆる縁が組み合わさっている状態のことだと想います。
さて、世の中を眺めて見ますと、人生とは成ろうとして成れるわけでもなく、成ろうとしなくてもどこかで大きな力が働いて成っている場合もあることがわかります。人生なるように成り、なるようにしかならないと言うことになります。ケセラセラなる言葉も生まれて来ます。
結局、毎日の縁を大切にするということが、いかに重要だということでしょうか。自分で気がつかない縁に対しては、無知ですが、全てのことは因縁果により出来ているのでしょう。
例えば、神についても神はあると言う人とないと言う人がいますが、これも神という存在に気づくかどうかという問題になります。目に見えない存在ですから、信仰と同じです。ある人にはその存在が見えますが、ない人にはその存在は無意味なのです。心の問題ですので、それを信ずるかどうかの問題になり、最後は信仰に行き着きます。
さて、私はどうかというと、自然の摂理そのものが神と考えています。これはもう、20歳の頃からの信念なんです。その考えで今まで生きてきました。自分の好きなことをやっているようでも、自然の摂理の前では逃れることのできないちっぽけな存在なのです。しかし、価値があるから私も存在しているのです。その私の良さをこれからも追い求めていくことでしょう。それが、私にとって生きると言うことです。
他の人もたぶんそうなってこの世に誕生しているはずです。その意味を考えながらやってきたのが私の人生のような気がします。自我を持ち、自由にやってきたようで、実は仏様の掌の中で動き回っていたのです。そうです。孫悟空が私たち人間の存在なのです。
これからも、自我を持ちつつ自我を超えて自我を見つめる目を高めるしかありません。今後もこういう視点で進んでいければ幸いだと想っています。