想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

コロナ禍 最期に残るもの?

2020年06月08日 | エッセイ

コロナ元年6月8日

 このところ、世界を吹き荒れたコロナの嵐も少し収まってきたかに見えます。各国も徐々に経済活動を再開しつつあります。ここで、心配なのが、第2波です。どの程度のものがくるか、どきどきの毎日です。どの程度のより戻しがあるかは誰も予想できません。まさに、神のみぞ知るです。どの国も薄氷を踏み分けて進むことになるのでしょう。患者の増加による医療崩壊はもっとも留意すべきことでしょう。第一波が終わった今こそ、準備を進めておかねばなりません。

    さて、いつも想うのはなぜ、パンデミックになったかという事です。まさに、原因の第一は、世界の人口の爆発的増加です。それが、多方面に地球に負荷をかけていたと考えて間違いはないでしょう。

 18Cの産業革命以降に世界人口の増加ペースが早くなってきました。そして、20Cに人類は人口爆発と呼ばれる人類史上最大の人口増加を経験しました。国連の推定では19C末の1900年におよそ16億人だった世界人口は20C半ばの1950年におよそ25億人となり、20世紀末の1998年にはおよそ60億人にまで急増しました。

 特に第二次大戦後の増加が著しく、2011年には70億人を突破し今では77億人と言われています。しかし、世界の人口増加率は1965-70年の2.06%が頂点となりました。ここをピークとして少しずつ、増加のペースを減少させてきており、人口増加は続くものの人口爆発の危機は幾分、遠のいてきたとされています。

 今後は世界レベルでの高齢化、地域間の格差と移民、食料不足、新しい病気やウイルスの登場等が問題の焦点になってきています。つまるところ、人口の爆発的増加に地球が悲鳴を上げて来たということです。

 解決策は、もう、地球にやさしい経済にし、人口を抑制しながらコロナと付き合っていくしか方法はないような気がいたします。そりゃあそうでしょう。同じ広さの体育館に16人いたのが、今では、77人になったんですもの、そりゃ寝るにも食うにも困るでしょう。ソーシャルディスタンスも図るのが難しくなっているのです。感染リスクも上がってしまいます。昔はもっと、人口も少なかったでしょうから、ウイルスやばい菌もうつりようがなかったかと思われます。

 ですから、これからは人間も自然の流れの中で経済活動をして、消費財も土に帰るジャガイモでん粉で作ったり、間違えても石油製品で作らないようにするなど、極力自然に帰る製品にしてゆくなど、大きくパラダイムシフトしてゆくしかないでしょう。科学は地球にやさしくなる為に使って欲しいです。

 ポストコロナは、自然に帰れの世界にならざるをえないでしょう。自然から学び、自然を師と仰ぐことです。そこから、いくらでも学ぶことはできるはずです。私の菜園のスタンスはまさにそこにあります。

 フランス啓蒙(けいもう)期の天才的哲学者ルソーは根本思想にて「自然に帰れ」と叫びました。自然は人間を善良、自由、幸福なものとしてつくりましたが、社会が人間を堕落させ、奴隷とし、悲惨にしました。それゆえ自然に帰らなければならないのです。人間の内的自然、根源的無垢(むく)を回復しなければならない、というのであります。

 これはいうまでもなく、原始的未開状態への逆行を意味するのでもないし、またいっさいの悪を社会の罪にして、人間の責任を不問にするのでもありません。ルソーはあくまで社会を人為の所産とみて、社会悪の責任を人間に問うのであります。「たえず自然に不平をいっている非常識な人々よ、君たちのあらゆる不幸は君たち自身から生じていることを知るがよい」。これが第二論文『人間不平等起源論』を貫く内心の叫びであると、ルソーは『告白』第8巻で述懐しています。18世紀の事ですが、このような考えを持った人がいたのです。ですから、私はいつも想うのですが、世の中は進歩しているように見せてはいても、本質は変化しているとしか言いようがないと想っています。それは、昔のお釈迦様の言葉であり、諸行無常が世の中の本質だといえます。お釈迦様といえば、諸説があり、紀元前400~600年のお生まれです。今から、2500年も前の世界で、個の真理を発見した彼はやはり世界の偉人です。他に、諸法無我なる言葉もあります。これは諸行無常と対をなすものです。直訳すればあらゆる事物には永遠不変なものである我がないという事になりますでも自分にはこの体があるし、五感で感じ、頭で考えることもできるではないかという考えもあるでしょうが、今まで会った人や受けた教育が違えば当然今の自分とは違います。今、ここに自分があるのはこれまでのさまざまなご縁のおかげであり、自分の存在自体も、諸行無常のこの世界ではさまざまな因縁のなかに映し出された影のようなものなのでしょう。「諸法無我」とは、諸行無常」を違う側面から言い表したものなのです。

 昔はアレルギーもなかったように想いますが、最近は誰もアレルギーを持っています。ですから、皮膚科はどこも満員です。そして、アレルギーや抗体が暴走する問題も今どきの課題です。コロナでなくなる人も、そういうことが原因で悪化した人もいるようです。これでは、近代医学と病気の追いかけっこです。どこまで行っても、切りがありません。どこかで、連鎖は断ち切らないといけません。

 私も今までは、なかったようなことを経験するようになりました。いわゆる皮膚のアレルギー反応なのでしょう。それは、菜園をやるようになってからのことです。腕に虫刺されのような傷ができた時のことです。今までは、赤チンや消毒液を塗っておけば可能もせずに治ったのに、ついに皮膚科にゆき、ステロイドの入った軟膏をつけないとなかなか治らなくなってしまいました。昔では考えられないことです。周りの環境が変わって来ているということでしょう。試しに1月ほっておいたのですが、治らないのでついに皮膚科に行き、その薬を塗ったところ、すぐ直ってくるのです。それには驚きました。今はそんな時代を生きているのだなと痛感しました。それからは手や腕の周りをしっかりガードしてから農作業をするようになりました。その後は調子がいいです。

 私は基本的には自然治癒力がすべてだと考えていましたが、今の時代はそれだけでは治らないのだなと感じてきています。残念なことですが、環境が昔と大きく変わって来ていいるのです。人間の体も、自然と少しずつ離れていってるのではと心配しています。本当は自然の流れに戻って欲しいです。

 残念なことに今の農業は地産地消でなく、商業ベースの載せるための大規模な農業になってしまいまし。だから、農業をやっていても、農の本質が見えてこないのです。人の手が入り過ぎて自然の風雨を忘れ、農薬を使い、遺伝子操作が入り、バイオ技術を云々となっています。益々、自然と離れていっていってしまっています。

 昔からのその土地で使われていた種をつかい、細々とでもやっている野菜作りが一番体にはいいのでしょう。外国から輸入すれば、腐らないようにと化学処理がされ、益々アレルギー患者を増やしているように思えてなりません。農は国の基本です。どこかでこの連鎖を断ち切って本来の地産地消のおいしい野菜にしていかないといけません。そうしないと、益々訳のわからない病気も発生してくるのでしょう。そういう意味でも私の菜園づくりのスタンスは自然と人とのかかわりの中で、里山農法とてももうしましょうか。自然にやさしい野菜作りを心掛けています。






 

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