コロナ2年6月4日
今、私が息をしているのが、ここ、今という刹那であります。人生はその刹那が積もっていってできるのです。こうして、書いている間も時は流れていっています。チャンスは瞬時になくなってしまうかもしれません。
私たちはこうして、いつも、「あれか、これか」の選択上にあるわけです。今、こうしていると、高校生の時に学習した倫理社会の中に出て来た実存主義者キルケゴールの 今の決断と行動が、未来の自分の経験となってくれる。
「生きる」とは今という瞬間にしか成しえないこと。であるならば、過去ではなく今という瞬間に注力して前を向くことが大切なのだと、キルケゴールの言葉に触れている感じにさせられました。
しかし、日常は誰も、こんなことを意識して生活しているわけではありません。しかし、無意味にしていたその刹那刹那も、振り返って考えてみますと、その瞬間でどちらかの道を選んでいるのです。だから、「あれか、これか」なんです。
本当は、道はもっと、幾重にも複雑になっていたのかもしれません。しかし、大きくとらえれば、その二つを選択して来た結果、今の私があるのです。
これが、自分で選べる場合と、自分以外の大きな力で成り立っている場合があるのです。それが、運命です。コロナ禍も自分では選べれない運命のいたずらです。
そうすると、このことは個人というよりも大きな人類というくくりで考えないと、結論がでません。まさに、今は、人類の実存が問われているのです。個人の実存から人類への実存が問われ始めているのです。
今、まさに、私たちはそこに来ているのです。今まで誰もが経験したことのない新しいワクチンを打つのか、打たないのか。
体制としては、今、人類として打つ方向に大きく舵を切っている。個人では民主主義ですので、一応はどちらかを選ぶことはできます。しかし、体制は新しいワクチン接種に行っています。
「実存主義」とは、簡単に言うと、「人間一人一人の存在を大事にし、どう生きるか考えること」です。でも、今は人類の実存がまさに問われています。
まさに、今は、エネルギーを大量に使う資本主義の存亡がかかっている事態だといえましょう。民主主義と全体主義についても、また、どこかで、述べてみたいと思います。