想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

起業から想う 適応と創造

2014年10月25日 | エッセイ

震災4年10月25日

  日本の教育は適応能力ばかりつけ、理解に重点が置かれすぎていると思います。そして、その理解も自分以外の事象を理解し適応しようとするだけで、自己改革や企画力想像力という面で弱かったと思います。いわゆる素直な子がいいという論理できました。私も自称素直な子で育ってきましたが、それだけでは駄目だなと成長していくにつれ、自然と気づくようになりました。幸い次男でもありましたので、しがらみも少なく、自分の人生はおおかた自分で選ぶことができました。ただ、生きていく上では妥協は必要です。多種多様な人がいるわけですので妥協なくしては生きてゆけないと思います。その辺とのバランスを取りながらやってきました。いわゆる適応と自立の狭間で生きてきたともいえます。人は与えられた自分の環境の中でものを考えます。そういう意味では生まれ育った環境や両親に感謝してます。土地もなく、財産もなくです。

 最近の教育では、やっと、生活科や総合的な学習ができ、教科の枠を超え、気づき追求し体験する中で自分なりに課題を見つけ、それを解決する能力、いわゆる自立への基礎が培われるようになりました。
 先生が分かるのでなく、生徒自らが、それをやろうとする力やエネルギーが大切であるという方向へ来るようになりました。その力は戦後の憲法を民衆が支える根幹になるものと思います。いい方向だと思いますが、依然として自分から起業するという面では日本の教育は旧態依然としていると思います。就職ができないなら自分から起業しようとするベンチャー的な発想があってもいいのではと思います。

 私も、今まで小学校の教師をしてまいりましたが、この起業と言う観点からものを考えたり教育をしたりという経験がありませんでした。文科省が決めた学習指導要領を基に学習を進めるのが務めの自分としてはいたしかたないのかもしれません。
 今後は適応ばかりでなく自ら発信していく、起業していく、自発的な面をもっと、勉強していきたいと思います。ましてや、義務教育の中ではこのような教育は受けて来ませんでした。これは国の責任でもあります。総合的な学習の根幹はこの辺にあるのではと思うところです。

 最近の動きとして、政府は道徳を教科にすると決めたようですが、道徳は内面の問題でもありますし、評価が難しく、評価すること自体大きな問題があります。今まで通り教科にしない方がよいではないでしょうか。
 それよりは、総合的な学習の集大成として、企画科とか創造科とか、自立科とかいうものを教科として取り入れ体系的に指導していった方がいいように思います。

 適応するばかりが人生ではありません。自分から切り開くことも大いに大切です。適応する客体がおかしくなれば適応しても無意味になる時代ですから、今後は若者は大いに反省し自分から育て、作り上げるという面を磨く必要があります。歴史や伝統はあるのではなく作り上げてゆくものです。その足跡が歴史であり、伝統となるものです。すべては諸行無常でうつろいでいくものなのです。
 
 適応と創造の調和は永遠のテーマでもあります。どちらが上下でもなく、うまくバランスが取れているのが理想です。そうです。バランス感覚が大切です。そのバランス感覚ほど現代人には必要ではないでしょうか。

 事象の真実を色眼鏡でなく、しかと見つめる目が平和な社会を育てるのだと思います。バランス感覚も結果としてのものであり、そこに至るまでには正反合のダイナミズムな世界があるのも事実でしょう。それらの運動を正しくとらえてゆきたいものです。極端にならないという意味ではバランス感覚は大切なものです。

 

今日の我が家の庭 

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