想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

天空の芝桜

2011年05月23日 | インポート

 2,3年前から行こう行こうと思っていたが、なかなか実現できなかった茶臼山の芝桜を見に行ってきました。天空のと言うだけあって、ちょうど茶臼山のてっぺんにありました。スキー場に冬季はなっています。
 30年前に合唱の仲間と行ったことがあり、ハイキングにはいいところだなと思い、その後も、3,4度行ったことがありましたが、今回は久しぶりに行くことができ、少し、様子も違っていましたが、満足して帰ってきました。

 下界は夏日でしたが、ここは涼しくて快適でした。まだ、5,6分咲きと言うところでしょうか。もう、一度来たい位でした。踏ん張って、リフトを使わず頂上まで徒歩で登りました。

 

 

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野菜も雑草と共存

2011年05月20日 | インポート

 野菜も雑草の中で育っています。奥の方ではナガイモ、エシャレット、里芋、生姜、苺、そして、たまねぎ、アスパラ、インゲン、大根などが育っています。これからは、大豆やサツマイモを植えようかと思っています。連日、苺やエンドウが収穫されています。後は、すいか、うり、カボチャ、ごぼう、ピーマン、ナス、キュウリなども植えてあります。自然栽培ですと、収穫が遅くなるのが分かっていますが、そのときが楽しみです。
 120坪ほどありますので、家族で食べるには十分あります。苺やエンドウは毎日収穫されています。エンドウはそろそろ収穫も終わりに近づき、豆をオムレツに入れました。
 市販の野菜はすぐ、腐りかけるようですが、自然のはなかなかくさりにくく。保存が効くようです。
 雑草の中で無農薬で育っていますのでテントウムシ、カマキリ、カタツムリ、キジ、モグラ…何でもいます。それにしても、キジがよく見かけられます。本当は写真におさめたいのですが、望遠がなくて、近づくとすぐ逃げられてしまいます。もっぱら、携帯のカメラで撮っていますが、いつになったらいい一眼レフのいいカメラが買えるのか、まだ、予定のみです。

 

 ウォーキングしていると、よく見られます。今はハマヒルガオが満開です。

 

 

 

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そろそろ脱原発に舵を!

2011年05月17日 | インポート

   東北大地震による津波を飛行機で撮影している様子が時々フラッシュバックのように脳裏によぎることがある。マクロから眺める地球はあまりにも小さいものだと思う。映し出される自動車もまるで、ミニチュアのおもちゃのようだ。上から見ると津波がすぐそこまで来ているのにもかかわらず、右往左往している自動車、それを運転しているドライバー、何ともしようがなくて見つめているだけの自分、でも、大きな自然災害の前に自分ではどうしようもない。
 このことは、顕微鏡で見ているプレパラートの中と似ているなと思った。人間も自分の目線にいると、顕微鏡の中の生き物より大きいが、飛行機から見ると顕微鏡の中の生き物とそう大きさが違わない。不思議だなと思った。宇宙はとてつもなく大きく無限であると思う。また、ミクロも無限に小さくどこまで行ってもきりがない。大きくとらえると球のようでミクロもマクロも繋がっているのかもしれないと思った。結局、人間も大きなことをいっても球の中で全ての生き物と繋がっているのだなと思う。そろそろ、原発などといってないで、脱原発を目指さないと生物の一員としての人間の命も危ういところにきているような気がする。10万年たっても汚染が残る放射能は一体なん何でしょう。そろそろ、人間もそのことに気づいて新しい方向を考えないと子孫に大きな禍根を残すことになるだろう。

 

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浜岡原発全原子炉の停止要請

2011年05月06日 | インポート

 浜岡原発全原子炉の停止要請、菅首相がついに決断しました。浜岡の原子炉は停止されるようです。福島の原発事故を考えれば、当然と言えば当然ですが、利害が複雑に絡まっている業界のことを考えるとよくぞ決断してくれました。
 私のうちも原発から直線距離で9Km位になります。ひとたび災害がおこれば大変なことになります。原子炉はことが起きるともう人の手には負えなくなります。国民のことを考えて決断してくれた首相には感謝感激です。
 原発の問題は子孫や将来、また、地球全体にもかかわる問題です。事故は絶対おこらないという補償はありません。仮に起こらないとしても、今回のようにまず停止させ、そこから代替エネルギーを考え脱原発の方向に進むべきだと思います。日本国代表の首相の発言一つにかかっていたわけですので、喜ばしいことだと思います。これで、世界で唯一の被爆国日本が大きな決断をしたわけです。
 今後も、脱原発の方向に舵を大きく切ってくれるよう祈るばかりです。今、この時期決断しなかったら将来に大きな禍根を残すことになるでしょう。ある意味1000年に一度の人類にとっても大きなチャンスの時期だったのです。このニュースを聞いて今、ほっとしているところです。今後の動静を見守りたいです。

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はっとする心は永遠

2011年05月04日 | インポート
  いつでもはっとする心がなくなったとき私の人生も終わりであると思います。いくつになってもはっとする驚きや感動を大切にしたいです。90歳の詩人のおばあちゃんが話題になっていましたが、きっとそのおばあちゃんはいつも、そのような心境だから、詩がかけるのだと思います。どこかで、永遠なる物を身につけているんでしょうね。まだ、読んではいませんが、きっと、毎日を正直に自分の心に素直に生きて来たから、そのお年になってもすばらしい詩がでてくるのだと思います。人に読んでもらうからではなく、ただ心の叫びを言語にしただけだと思います。そんな様子が浮かんできます。いつも、そして、そのおばあちゃんは何のわだかまりもなく外の世界と交流があったのではないかと推察しています。

 戦後65年大きな節目もなく生きてきた自分ですが、(私たちの世代はすべてを戦後で片づけてきましたが、)私の心の中では3月11日は震災元年の年として区切りの年としていきたいと思います。

 さて、自然が一番左側にあるとすれば、原子力災害は人工の最たる物で一番右に来るものではないかと思います。その中間に里山的、自然との、のりしろ的事象があるのでしょうか。一度、時間があればその直線上に人間の営みのことを並べて、もう一度人生を鳥瞰してみたいと思います。今の人間がいかに右側で生活していたということが分かるのではないかと思います。人工で、何でもできてしまうと言うことになれば畏敬の念もなくなってしまいますものね。自然は懐が大きいです。どこまで行っても際限なく大きな存在だと思っています。
 
 昔、道徳の本に「片耳の大鹿」椋鳩十作の作品があったのを思い出します。あれは嵐の中で洞穴に避難してきた片耳の大鹿と猟師が一緒に過ごすことになった男の話だと記憶しています。嵐という人間が制御できない自然現象の中で普段なら鹿を撃ち殺していただろう猟師が、その鹿と同居してしる場面があります。そして、最終的に鹿を撃てなくて…。
 このような場面が展開されますが、私は津波や地震による震災と放射能の問題が違う次元でとらえられている不思議さに直面し、自然への畏敬の念は本能的にまだ、人間の中に宿っていたのだという事実を確信しました。今はよくても子孫に影響の出る放射の汚染は考えなくてはいけません。
 
 今回のことがどれほど今後の人類への生き方に警鐘をならしたのかということを胸に当てて何度も再考すべきだと思います。海や空は世界と繋がっていますし、気候も同じです。中国の黄砂も西風にのってやってきています。多分その中にウイルスや汚染物も混じっているかもしれません。地球は一つの生命体としてすべてと繋がりを持っています。原発の放射能漏れが、神からの人類への警告ととらえても言い過ぎではないかと思います。遙か昔、高校で習った倫理社会の教科書の中に載っていた利益社会と共生社会という言葉を思い出しています。今後は、利益社会から共生社会へ必然的に行かざるをえないようです。その証拠に世界各国から援助隊や支援金が殺到したことを思い出します。世界もすてたものではないなと思ったものでした。このことへの国際社会へのお礼は、日本国民が未来永劫に文明への反省の日として心に刻んで鎮魂の日とでもして、後世に語りつないでも言い過ぎではないと思います。1000年に一度の災害にしてはマスコミももっと、大々的にキャンペーンを張ってもいいのではないでしょうか。
 諸行無常、私たち肉体あるものはいずれ滅びますが、あの事実だけは後世に伝え、おごれる人間への警鐘の日とすることができれば幸いと思います。土を忘れ空間をおろそかにし、空気を汚し、生態系に大きな影響を及ぼす人工物の最たる物を作り、一番クリーンだと詭弁を使い、ことが起これば、想定外だと言い逃れる人間の性を反省しなくてはなりません。今、人の手に負えなくなり右往左往している人類の営みを、宇宙の彼方から眺めている者がいるような気がしてなりません。
 
 最近、土間の効用が日本の家屋の中でいかに大きかったかと言うことを今回の震災で改めて考えました。昔の家屋は自然といつもつながっていました。自然の延長線上に住居がありましたが、最近はどうでしょう。自然との繋がりを切って、部屋があるのではありませんか。最近の歌謡曲も歌詞を見てもあまり、自然はでてきません。私の記憶では「青葉城恋歌」ぐらいでしょうか。
 さて、濁流に飲まれ、助かった人は皆、泥まみれだったと思います。私たち子供の頃は雨がふればぴっちゃんちゃんといって、裸足で泥水の中を歩いたり泳いだりもしたものでした。そして、昔はどの家屋にも土間があり風呂は薪やおがくずを燃やしたりしてわかしました。特に土間は自然と人工的なものをつなぐ役目をしていたんだと改めて思います。これがなくなっていったことで自然から私たちは益々離れていったのではないかと考えました。土は生き物とは切っても切れない関係にあります。土や空気を汚したら人は生きてゆけませねん。画一化、効率化、規格化、デジタル化はより人間を無機質化させます。豊かな地球があってこそのすべてです。この根底が崩れるような原子力であってはなりません。大地から人間が生まれたといっても過言ではありません。大地は母であり種子は父でもありました。土の香りのする物を遠ざける生活がいいはずはありません。間とか空間の大切さも無用の用も同じですね。これがあるから他のものも生きるんだと思います。白いキャンバスのどこにリンゴを置くかでリンゴは同じでも、そのリンゴの絵が変わってきます。単なる山も人間と関わることで里山となり、川も水辺となり自然と人間の共生が行われます。どちらが主となるでもなく共存し、そこには、四季があり、自然のうつろいがあります。山から流れ出た水は高きより低きに流れ、その中で浄化され生物を育み大河に流れてゆきます。田んぼには色々な命が溢れ、作物の旬を生かした農業があり、地産地消が行われ、運搬などという無駄なエネルギーが使わなれない自然にやさしい社会になれるようもう一度見直ししていく必要があります。
 特に山林などは花粉症から脱却して檜を伐採して四季がある広葉樹林に変えていく政策が必要となります。理想論的なお話としないで、一人一人の心がけでいい日本にしてゆきたいものです。そのことが、我々の身代わりとして天国に行った人たちへの御霊に感謝することになるのだと思います。
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