いつでもはっとする心がなくなったとき私の人生も終わりであると思います。いくつになってもはっとする驚きや感動を大切にしたいです。90歳の詩人のおばあちゃんが話題になっていましたが、きっとそのおばあちゃんはいつも、そのような心境だから、詩がかけるのだと思います。どこかで、永遠なる物を身につけているんでしょうね。まだ、読んではいませんが、きっと、毎日を正直に自分の心に素直に生きて来たから、そのお年になってもすばらしい詩がでてくるのだと思います。人に読んでもらうからではなく、ただ心の叫びを言語にしただけだと思います。そんな様子が浮かんできます。いつも、そして、そのおばあちゃんは何のわだかまりもなく外の世界と交流があったのではないかと推察しています。
戦後65年大きな節目もなく生きてきた自分ですが、(私たちの世代はすべてを戦後で片づけてきましたが、)私の心の中では3月11日は震災元年の年として区切りの年としていきたいと思います。
さて、自然が一番左側にあるとすれば、原子力災害は人工の最たる物で一番右に来るものではないかと思います。その中間に里山的、自然との、のりしろ的事象があるのでしょうか。一度、時間があればその直線上に人間の営みのことを並べて、もう一度人生を鳥瞰してみたいと思います。今の人間がいかに右側で生活していたということが分かるのではないかと思います。人工で、何でもできてしまうと言うことになれば畏敬の念もなくなってしまいますものね。自然は懐が大きいです。どこまで行っても際限なく大きな存在だと思っています。
昔、道徳の本に「片耳の大鹿」椋鳩十作の作品があったのを思い出します。あれは嵐の中で洞穴に避難してきた片耳の大鹿と猟師が一緒に過ごすことになった男の話だと記憶しています。嵐という人間が制御できない自然現象の中で普段なら鹿を撃ち殺していただろう猟師が、その鹿と同居してしる場面があります。そして、最終的に鹿を撃てなくて…。
このような場面が展開されますが、私は津波や地震による震災と放射能の問題が違う次元でとらえられている不思議さに直面し、自然への畏敬の念は本能的にまだ、人間の中に宿っていたのだという事実を確信しました。今はよくても子孫に影響の出る放射の汚染は考えなくてはいけません。
今回のことがどれほど今後の人類への生き方に警鐘をならしたのかということを胸に当てて何度も再考すべきだと思います。海や空は世界と繋がっていますし、気候も同じです。中国の黄砂も西風にのってやってきています。多分その中にウイルスや汚染物も混じっているかもしれません。地球は一つの生命体としてすべてと繋がりを持っています。原発の放射能漏れが、神からの人類への警告ととらえても言い過ぎではないかと思います。遙か昔、高校で習った倫理社会の教科書の中に載っていた利益社会と共生社会という言葉を思い出しています。今後は、利益社会から共生社会へ必然的に行かざるをえないようです。その証拠に世界各国から援助隊や支援金が殺到したことを思い出します。世界もすてたものではないなと思ったものでした。このことへの国際社会へのお礼は、日本国民が未来永劫に文明への反省の日として心に刻んで鎮魂の日とでもして、後世に語りつないでも言い過ぎではないと思います。1000年に一度の災害にしてはマスコミももっと、大々的にキャンペーンを張ってもいいのではないでしょうか。
諸行無常、私たち肉体あるものはいずれ滅びますが、あの事実だけは後世に伝え、おごれる人間への警鐘の日とすることができれば幸いと思います。土を忘れ空間をおろそかにし、空気を汚し、生態系に大きな影響を及ぼす人工物の最たる物を作り、一番クリーンだと詭弁を使い、ことが起これば、想定外だと言い逃れる人間の性を反省しなくてはなりません。今、人の手に負えなくなり右往左往している人類の営みを、宇宙の彼方から眺めている者がいるような気がしてなりません。
最近、土間の効用が日本の家屋の中でいかに大きかったかと言うことを今回の震災で改めて考えました。昔の家屋は自然といつもつながっていました。自然の延長線上に住居がありましたが、最近はどうでしょう。自然との繋がりを切って、部屋があるのではありませんか。最近の歌謡曲も歌詞を見てもあまり、自然はでてきません。私の記憶では「青葉城恋歌」ぐらいでしょうか。
さて、濁流に飲まれ、助かった人は皆、泥まみれだったと思います。私たち子供の頃は雨がふればぴっちゃんちゃんといって、裸足で泥水の中を歩いたり泳いだりもしたものでした。そして、昔はどの家屋にも土間があり風呂は薪やおがくずを燃やしたりしてわかしました。特に土間は自然と人工的なものをつなぐ役目をしていたんだと改めて思います。これがなくなっていったことで自然から私たちは益々離れていったのではないかと考えました。土は生き物とは切っても切れない関係にあります。土や空気を汚したら人は生きてゆけませねん。画一化、効率化、規格化、デジタル化はより人間を無機質化させます。豊かな地球があってこそのすべてです。この根底が崩れるような原子力であってはなりません。大地から人間が生まれたといっても過言ではありません。大地は母であり種子は父でもありました。土の香りのする物を遠ざける生活がいいはずはありません。間とか空間の大切さも無用の用も同じですね。これがあるから他のものも生きるんだと思います。白いキャンバスのどこにリンゴを置くかでリンゴは同じでも、そのリンゴの絵が変わってきます。単なる山も人間と関わることで里山となり、川も水辺となり自然と人間の共生が行われます。どちらが主となるでもなく共存し、そこには、四季があり、自然のうつろいがあります。山から流れ出た水は高きより低きに流れ、その中で浄化され生物を育み大河に流れてゆきます。田んぼには色々な命が溢れ、作物の旬を生かした農業があり、地産地消が行われ、運搬などという無駄なエネルギーが使わなれない自然にやさしい社会になれるようもう一度見直ししていく必要があります。
特に山林などは花粉症から脱却して檜を伐採して四季がある広葉樹林に変えていく政策が必要となります。理想論的なお話としないで、一人一人の心がけでいい日本にしてゆきたいものです。そのことが、我々の身代わりとして天国に行った人たちへの御霊に感謝することになるのだと思います。