恒例の朝のウォーキングである。今年から1級河川の菊川は予算が削られ草刈りが例年の半分になってしまった。(国交省が草刈りをやっている。)
ウォーキングの道すがら、ふと周りの雑草に目を向けると、あるはあるは色々な雑草が、そして、それは、一つの種でなく、背丈、色、葉の形といい、まさに雑草である。色々なものが混ざって一つの堤防の草を形取っていた。
最近、どうも、物事を特化して考えるという癖がついている人が多い。そのこと事態は悪いことではないが、それは物事を考える手段の一つであると言うことを忘れてしまっている。雑に考えることを忘れた現代人ではないか、そのことは、受験生の優等生に似ている。与えられたことに対しては、正確な答えを出すことができるが、その前提というか想定が違って来た場合に対応できないのだ。現実、自然界では想定外の出来事はごまんと起こる。理解しようとするのでなくありのままを受け入れることも大切である。
「みんな違ってみんないい。」と、いったのは、かの詩人金子みすずである。
なぜか、この年になり、彼女の横顔を見ると母親のような安らぎを覚える。年を取ると子ども時代に戻るとはこのことか、最近はよく両親の面影が浮かぶ。両親には今でも感謝している。
現代社会は益々画一化されたもの、同一なものをどうしても求めてきている。その最たるものが、原発であろう。あの小さな格納庫の中に原子を閉じこめ、人為的に核爆発を起こさせ発電する。自然界ではあり得ないものを平気で作ってしまう。自然化は雑多なのだ。その証拠に、種を蒔いて育てるだけでその片鱗が分かる。芽が出る時期や大きさが違っているのである。そして、その種を絶やさないようにしているのである。芽が出た後で乾燥がやってきたとすると、その種は生きられない。そのとき、芽が出る時期にばらつきがあれば、違う種は生き延びることだってできるのだ。人間の能力も本来そうなっているはずだ。小1でできなくても、小5になれば、出来るようになる人もいる。その、雑さを認めてあげない、教育界もおかしいと想う。
自然はもともと、色々な種を認めそれが、自然淘汰や共存を繰り返しながら、生き物は芽を出す時期を変え、大きさを変え、それぞれに種々違った可能性を持たせ進化してきた。自然には画一性、効率性とは無縁な世界なのだ。あるがまま、なすがままのままならぬ世界なのだ。それを、理論を打ち立て、小さな格納機にウランを押し込め、そこで、科学の実験のような世界を作り上げ、余分なものを排除し純度の高いウランで発電するなんてことをやっていて、いつか、今回のような想定外のようが事態が発生してしまったのだ。とにかく、水は高いところから低いところに流れるもの、気圧は高いところから低い所にながれるものだ。自然とはそういう風に自ずとしかるべきに出来ている。
雑草は雑に見えるが、雑草は実に強い。想定外を沢山経験しているからだ。今の教育を受けているとどうしても、想定外の中で、画一的に物事を考えがちだが、ものをありのままに見てありのままに受け入れる心があまりにも現代人には少なくなってしまった。すぐ、画一、規格、効率面から見てしまう癖がついてしまった。この辺に現代病の源が潜んでいる。病気もそうだ。その点、長年の批判に耐えてきた宗教は奥が深い。仏教、キリスト教等含蓄がある。
セイタカアワダチソウも色々な雑草と共存している。切磋琢磨しているといった方がいいのかな。あざみもきれいに咲き、チョウを呼んでいる。
小判草もよもぎもけなげに生きている。
夜露に守られながら植物は日々生長している。そして、種をつないでいく。