最近、とみに貧困の拡大、格差の二極化が叫ばれるようになりました。私なりにふと、気づいたことがありますので、この問題について、考えてみました。
何事も、因縁果があるのが仏教の教えです。このことは、真理だと思います。要はそのことに気づいていて、自覚的な生活を送っているかどうかが問題です。そこに、二極化の芽が潜んでいます。人間には欲があってなかなか気が付かないのが問題です。それが、表面化して、可視化してから初めて気づくのです。もう、さじは投げられていたのです。
戦後、基本的人権を中心思想とする憲法が制定されました。そして、人権は公共の福祉に反しない限り、誰もが侵すことのできない固有の権利であるとうたわれて来ました。
自由に何でもできるということは、すばらしいのですが、自由だけが一人歩きし、公共の福祉を忘れてしまっているところに大きな原因があります。自分だけよければというエゴが原因です。それだけを推し進めて行くと、放縦の自由になり、経済の自由もやがて、格差が出て来るのです。いいことが分かり、進んでやる人と、自由だけ享受したいと、快楽だけを求めてやりたい放題する人が出てくるのです。ですので、この辺の調整を公共の福祉という言葉で安全弁にしていかないと、自由は破滅に向かうのです。この辺に最近の格差の二極化の原因がありそうです。
ですので、社会も、利己主義的に自由にしていると、天につばするのと同じで、やがて、自分の上に降りかかって来るような、そういうことをさせないような仕組みを作りが必要です。家庭でもそういうことが子育てで、できるのではないでしょうか。自由には必ず、責任が伴うことを身を以て知らしめることです。そうしないと、努力もしないで、結果だけ得たいという人たちが増えてしまいます。
それが、最近、二極化の大きな要因のようが気がしてなりません。今だけ快適を求めるだけでなく、将来のことも考えて思慮深く行動することの大切さなのです。
ですので、昔の人はいいことをいいました。石の上にも三年とか、木は上るときよりも下りる時に気をつけなさいとか、キリギリスとアリのお話もそうですね。
原子力発電なども発電だけ考えて、その後の、原発廃棄物の処理方法が確立されないまま、進めてしまっているのもおかしな話です。このまま続けていると、やがて、また、大きな事故や廃棄物問題で行き詰まってしまいます。ドイツを見習いたいです。教訓から学ばないといけません。教訓は最大の教師です。東北大震災という教訓、広島の被爆など、学ぶべきことはありふれています。
もう一つ、忘れていることがあります。それは、交差点みんなで渡れば怖くない的な発想です。これは、きわめて危険です。先史の時代を見てみると、海岸は本来砂浜であったはずです。絶えず、波が打ち寄せ、自然が季節折々に変わっていったのが、本来の姿なのです。
人間は文明の発達と共に、砂浜に家を建て町並みを作り生活して来ました。ですので、津波が来れば自然からすれば、ひとたまりもないのです。砂なら跡形もなく津波に流されてしまうのです。
そのことを考えると、砂浜に家を建て、みんなが住み始め人口が増えた街は危ないに決まっていますが、みんなで渡れば怖くない式になっているところが、日本に至る所にあるのです。海抜0m地帯もあるのです。今、かろうじて、堤防で持ちこたえていますが、そのことを思うと、ぞっとします。ちなみに、私の所は国交省の発表では津波がこないことになっていますが、安心しておれません。
昔、教師4年目の頃、校医の先生のお話にこんなことがあったことを思い出します。
今の子は、身長のばらつきが大きくなった。と、いうような話をしていました。成る程な、自由に食べ物を選ぶことができるから、自分の好きな物しか食べないからそうなっているんだなと、意を強くしたことがありました。
自分で何でも選ぶということは一見いいように思いますが、それには、高い見識が一人一人に備わっていないと、おかしなことになってしまうのです。自己管理ができないのに、自由になりすぎているのです。自己責任、自己管理能力の向上に比例して自由の幅も増えて行くようにしないと大変なことになるのです。
下に図示してみました。自由の幅は、自己責任、自己決定、自己管理の能力の増大に比例して増えて行かないといけないと思います。これがなく、自由のみ大きくなったところに大きな原因があります。分相応というところでしょうか。
まさに、現在の二極化がそういう自由のはき違えでなっている面が大いにあるなと思います。
ただ、中には自分なりに一生懸命努力しているのに、働けど働けど なお我が暮らし らくにならざり じっと手を見る。の人も、いるのは事実です。それは、それで、そういうようにがんばっている人は、救済できる法整備をする必要があります。
だけど、あにはからんや、自由のみ、享受しようとしても、そうは問屋がおろしません。そうですね。そんな安く仕入れればいいのですが、それだけの商品ならそれだけの色々な人の手間賃がかかっていますものね。そういうことです。氷山も、浮いているのは1/10で後の9/10は海の中に沈んでいて見えないといいます物ね。隣の芝生は青いというのも同じ意味ですね。昔、よく、母親からいわれました。
今、折しも、南米の世界で最も貧しい大統領といわれているウルガイのホセ・ムヒカ元大統領が来日しています。こんな彼のエピソードがあります。アラブの富豪から、彼のを自家用車を1億円以上で買い取ることを打診された際、友人たちからもらったものだから、売れば、友人を傷つけることになるといって、その話を蹴ったことがある。と、こんな話だそうです。
私は、単に物を、貨幣価値みるだけでなく、人の真心としてとらえていたことに、強く感銘を受けました。商いの道はこれでなくてはいけない、自由経済は見えざる手によって、それなりに妥協点を見つけて、動いているのはわかりますが、やはり、物心といって仏心に通じる物があるのではないでしょうか。
だから、物の売買だけで成り立つ商業が、江戸時代に士農工商と、いわれ、下位に位置づけられているのも分かる気がするのです。物を生み出す工よりも下にあるのです。
ですから、物を動かすだけで金儲けをしている人たちは余程、倫理的に高度は考えを持って行動しないと大変なことになります。
最終目標は人様の幸せのための商業ですので…。こういう面を考えて商売もしないといけません。
物を作る時はそれに、魂を吹き込むことは、その気になれば、容易にできるでしょう。
しかし、物の売買に心を吹き込むことは並大抵なことではありません。物を動かすだけで単に利ざやを稼ぐという短絡的思想になりがちです。物の動きに真心を込めるということをいつも考えて、商売をすれば、また、違う、商いの道が開けてくるでしょう。
但し、これは非常に難しことです。ですので、死の商人などという武器輸出でもうける輩もで出てきてしまいます。こうなれば、世も末といった感じです。そうです。すべてが、きれいな地球、人様の幸せに収斂(しゅうれん)していくことが大事です。
最後にいつまでも、地球が美しく、生き物が生き生きし、みんなが幸せな世界になることを祈っています。きれい事だけで、世界は動いていないのも事実ですが、少しでも、よくなるように心がけたいです。